気功には少なくとも2000年の前史と、 60年の中国気功の歴史、 それに30年の日本の気功の歴史があります。 60年の中国気功の歴史を語っていくと 前史と日本の気功の歴史がおのずと見えてきます。 |
||
気功の歴史を知らなくても気功をすることはできる。 気功の歴史を知らなくても気功の効果を受け取ることはできる。 でも、気功をしていたら、たいていは疑問を感じる。 湧いてきた疑問を尋ねたくなるのは私たちが「近代人」だからだ。 気功を伝える「仕事」をしている私たちは、できる限りそれに答えたいと思っている。 気功をしていると、気功をしている自分だけに関心が向き、気功の歴史なんか、どうでもいいのですが、している気功は、そのまま歴史のにおいをまとっています。 気功の歴史を知っておくと、気功がますます好きになれます。これは、気功がこの先どこに行くのかという話です。 中国人気功家は、気功の前史をやたら述べ立てます。中国気功3000年の歴史…というやつ。それにも問題がゴロゴロあるのですが、ほんとうの問題は、中華人民共和国成立以来の気功の歴史を自ら語らないところにあります。 中国人気功家たちは、自分の門派の気功の歴史は語ります。たいていは大袈裟に。しかし、この時代については口を閉ざして語りません。語ろうにも語らせてくれないという面と、語りたくないという面があるのでしょう。そのため、3000年の歴史はやけに詳しいのに、ここ60年の歴史はまるで空洞のようです。 もちろん、それは、共産党政治の賜物です。 そして、それは中国気功の「歴史」が、共産党政治の「歴史」の反映だということを暗示しています。 ですから、気功をほんとうに自分のものにするためには、今自分が手にしている気功、愛用している気功を十分に吟味して、中国気功に染みついている、そのにおいを、デオドラントして、できる限りニュートラルなものにした上で、自分の現在に馴染ませていけばいいわけです。 というのも、中国気功は、流行歌やファッションと同じように、どんどん更新されて、それまでのものは古いものとして捨てられているのですから。 その証拠には、21世紀に入ってから中国気功は「健身気功」以外輸出されなくなっているでしょう。60年分のストックは、古いもの、危ないものとして捨てられ、輸出禁止になってしまったのです。「健身気功」が、共産党政府公認の「国定教科書」であることはいうまでもありません。 「健身気功」は、ある意味、中国気功の総決算。またはこれからも中国気功が歴史を作るならば中間決算であるということができます。 ですから、それまでの60年分をおさらいしてみると、これが面白いんです。ああ、ここをこんなふうに総括したのかと、解るんですから。 60年の歴史については人によって、立場によって、いろいろな解があります。 以下は、その、ほんの一例です。ご参考までにお読みください。 時は1947年、日本が敗れて国共内戦たけなわだった時期の紅軍兵士・劉貴珍が、呼吸器の疾患で戦列を離れたところから話は始まります。 同志たちはもう劉とは会えまいと思った。 が、数年後彼は戻ってきたのです。 故郷に帰ってはみたが病院も医者もいない。彼は道士劉渡舟を訪ねて教えを乞いました。道士が教えたのは吐納法。彼はそれを習い、それで病気を克服し、戦線に復帰しました。奇跡が起きたと大騒ぎになりました。 その話が党中央に伝わり、中華人民共和国成立後、自己療法の研究が始まることになります。それが気功療法という名称となります。今日、気功のメッカと言われる北戴河は、劉貴珍が院長を勤めた気功療養院にちなんでいます。 なぜ、新政府はそんな研究を始めさせたのでしょうか。 1932年の満州事変以来、中国本土は戦火にさらされ続けました。日本軍に蹂躙され、日本軍が敗退した後も内戦で殺し合いが続きました。17年間の戦争で、国土は荒廃し、人々は健康を害し、貧しく、人心はすさみきってしまいました。 5000万人が死んだと言われています。当時の人口4億人。その8人に1人が死んだことになります。病気や怪我に苦しんでいる人は数知れませんでした。 そんな中、共産党の統治が始まったのでした。しかし、マイナスからの出発です。建物はあっても、医師も薬も設備もない病院。何もなくても患者に希望を与えられるとしたら、それは鍼灸医学と伝統の中から産み出された気功でした。 気功は、つまり、病院における補完医療として始まったのです。はじめは、例の呼吸法(内養功)だけ。それから少しずつレパートリーがひろがり、入院患者で試され、少しずつ気功は病院だけでなく、人民の間で評判になっていくのです。 1956年、革命政権が樹立されてから6年目のことです。 この年は北戴河気功療養院がされた年ですが、その一方、百花斉放、百家争鳴の文化運動が発動され、気功もブレイクします。諸家に伝わる治療法や体術が気功として認知されることになりました。 しかし、それは、翌年には弾圧の対象となり、市井の多くの気功家が投獄されてしまいます。反右派闘争です。 その弾圧をテコに大躍進という経済改造事業が発動されました。ところがこの急激な社会主義社会の建設計画はなんと3600万人もの餓死者を出して大失敗に終わり、毛沢東は政権を投げ出してしまいました。 そこで1960年から66年まで、劉少奇とケ小平が実権を握り、毛沢東の失政の後始末をすることになりました。この時期は産業をはじめ各界に専門家を養成する事業が盛んでした。 医療の分野でも専門学校が設立されて、気功医師や鍼灸医師の養成が行なわれ、巷間では古典気功の復刻がさかんに行なわれ、公園気功が見られるようになりました。新中国の小康期でした。 しかし、1966年になると毛沢東はプロレタリア文化大革命を発動し、イナカのチンピラを煽動動員して社会主義の旗の下、巻き返しに打って出ます。 それから10年もの間、人民同士が無意味な闘争に駆り立てられ、反目しあうことになったのです。死者は1000万人に及びました。市井の気功家はもちろん病院勤めの気功医師たちも地方に差し向けられるなど、大弾圧を被ることになりました。気功は宗教と迷信の隠れ蓑とみなされたからでした。 私たちが指導を仰いだほとんどの先生方もこの時期悲惨な経験をしております。実際、この動乱の10年間は気功どころではありませんでした。 その弾圧の嵐をかいくぐるように支持されたのが郭林女史の歩行気功でした。郭林は1971年ころから党中央に取り入って気功を認知させることに成功したのです。これまでの宗教のコナがまぶされた気功とは違う。ガンを克服できる、科学的なものだ。今度のは新気功だよと。 1976年に文化大革命が終わると、さまざまな分野で復権が始まり、気功も復活し始めます。ただ、二度も痛い目にあってきた気功家たちは慎重でした。 太極拳をアレンジしたものや、医療に有益な体操に近いもの、すでに復刻されて評価が安定しているものを、「革命を成功に導くためには有益だ」と標榜しつつ小出しにしながら少しずつ声を大きくしていきました。 1980年前後に発表された気功には、質のよい、完成度の高い気功がたくさんあります。 文革のほとぼりが冷めた1980年代も半ばになると、もう大丈夫とばかり、さまざまな創作気功が競うように発表されるようになりました。ついで保健効果があると能書きをつけて気功と称すれば自由に普及できると踏んで、かなり宗教風味の利いた気功もさかんに発表されはじめました。 病院では気功の効果をはっきり示せる外気治療が、気功の主役に躍り出ることになりました。1985年ころからは、大学病院の気功医師を海外に派遣しはじめました。当時気功医師は外貨を稼いでくる優等生なのでした。 気功の大ブームが到来したのです。 1985年ころというのは日本に気功が紹介されはじめた時期と重なっていましたので、このブームはそのまま日本でブレイクしました。草創期の気功療法、有名な古典気功、太極拳風味の気功、体操に近い気功、外気治療気功、そして宗教気功までが、入り乱れるように紹介されたのです。マスコミは競って「絵になる気功」を、ブローカーは「カネになる気功」をもてはやしました。 中国の気功のブームは、変貌する社会、変質する共産主義への不安、不満、そして抑圧された政治的自由の代償でした。それゆえ、社会的な暴走とも言える熱狂を伴っていました。カリスマ的な気功師をいただく「報告気功」の集会には、各地で何千人もの大衆が押しかけました。 中でも、法輪功はその組織力といい、規模といい、突出していました。1990年代の後半には、大衆が動員され、地方都市を呑み込むような勢いになりました。 そして、共産党内部で法輪功の処置をめぐって内紛が起き、結局、法輪功は弾圧、次いで巷間の気功はすべて禁止となりました。 1999年に法輪功が弾圧され、その後全国規模の気功団体は解散させられ、省単位で登録制のみ許可されることになりましたが、監視され統制された気功団体になど庶民はもう寄りつくことはありませんでした。いや、そんな中で気功をすることは、権力に公然と刃向かう意志の表明と見られる可能性がありました。北京市民の間では「気功」という言葉さえ、おびえて語ろうとしないありさまでした。 しかし医療の一翼を担い、一大ブームを作り、庶民の健康を支えてきた気功を、完全に廃棄することはできません。 そこで気功を病院医療体制に組み込む医療気功と、体育局の管理下に置く庶民の健康のための健身気功を作って二つに分断し、統制することにしたのです。 健身気功は大学や病院の研究者や医師らがチームを組んで古典気功を編集しなおした国定テキストです。 それが六字訣・五禽戯、八段錦・易筋経です。 古典のそれと区別するため、健身気功を冠して「健身気功八段錦」と呼ばれています。 膨大なエネルギーを費やして作られた健身気功ですが、人民の間にはさっぱり流行りません。巷間の気功が封印された5年間のうちに都市の経済は倍以上に成長し、庶民の所得も倍増しました。金権時代が到来しました。時代はもう気功を必要としなくなっていたのです。 そこで、諸外国から武術や太極拳の研修にくる人たちに速成で教え込んで、輸出するようなことをしています。気の文化のない外国で初めて気功を体験する人にはいいかもしれません。 中国の気功は、死に絶えてしまったのでしょうか。 学術的な研究はもちろん続けられています。いわゆる古典気功を堅持している優秀な気功家も存命です。病院の医療気功の経験も豊富です。 気功は、長い目で見なければなりません。よいものは、必ず息を吹き返します。 では、日本に渡ってきた気功はどうなったのでしょう。 以下も、日本の気功の歴史の見方の一例です。参考までにお読みください。 1985年ころから、気功はマスコミにもしばしば取り上げられて、好意的に紹介されはじめました。そして中国と交流のあった文化団体や太極拳のグループなどを介して、中国から続々と気功家が招聘され、各地で講習を開くようになり、関心をもった人たちが中国に習いに行くようになったのです。 それをきっかけにして全国各地に気功団体も数多く設立されました。その多くは小規模で非営利のサークル活動でしたが、医師や学者も気功に関心を示し、これらの気功団体を支持しました。 1990年ころには大都市のカルチャーセンターなどでも気功を新講座としてとりあげましたから、どこでも満員の盛況となり、ブームになりました。 しかし、前述したように、この時期に紹介された気功は、新旧入り乱れ、質もピンからキリまで、地味なもの派手なものと、雑多でした。中でも気功外気療法の気功師のパフォーマンスは人々を驚かせました。残念ながら質の低い派手なものほどマスコミ受けがよかったこともあり、法外な治療費を要求するなど顰蹙を買う事例が頻発するようになり、気功の評判はたちまち芳しくなくなっていきます。 1990年代は、バブルの崩壊の季節でした。浮かれた調子はしぼんでいきました。そんな中、1995年に起きたオウム真理教事件が一気に精神世界系と目される業界に打撃を加えました。ヨガも気功も、怪しいものとしてすっかり敬遠される風潮となりました。 こうして日本の気功は地道な練功の時代に入ったのでした。 気功愛好家の経験が豊かになってくると、自ずと評価は高まります。自治体などが主催する研修や、医療福祉の現場の技能を提供する発信元として、とりあげられることも多くなりました。メンタルトレーニングや自己啓発の素材として注目されたりもしました。 しかし、ヨガはインド的宗教色を一掃してファッショナブルな美容健康法として挽回できましたが、気功には中国色を一掃してスマートな体操に化けるような、そういう才覚がありませんでした。 そんな時期に江沢民の反日煽動と小泉純一郎の反共モードがぶつかって、反日デモを煽る中国への嫌悪感が広がり、気功が民間に広く浸透することが期待できない状況となりました。いくつかの有力な気功団体がその煽りを食って消えていきました。 中国では、法輪功の弾圧から気功への弾圧へと拡大しましたので、多くの気功家・気功師が活路を求めて、海外に渡りはじめました。日本へも続々と有名無名を問わず自称気功師たちが流れ込んできて、気功治療の営業を始めました。そして首都圏などでは中国人気功師同士で顧客の奪い合いに明け暮れている始末です。 2005年ころから健身気功は日本に入ってきましたが、それまで気功をしてきた人たちの間ではあまり評判がよくありません。20年間続けてきた人たちは自分なりに中国気功を咀嚼して、独自の気功観を育んできたからでしょう。 今さらあまり質がよいとはいえない平凡な気功(健身気功のこと)をする気にも教える気も起こらず、総じて魅力を感じないということでしょうか。 そんな事情も手伝って、近頃、世間では気功の評判は、決してよくありません。質のよい気功を体験したことのある人は気功に対して期待するものがあるでしょうが、テレビや週刊誌などでしか知らない人や手痛い被害を被った人には気功に対する偏見や誤解があります。ハンドパワーで病気を治してしまう特殊技能だと思い込んでいる人も少なくないのです。 気功の普及は、一筋縄ではいきません。 今、日中に共通する気功の課題は、質のよい気功を次の世代に受け渡し、その担い手を育てることです。 まず、質のよい気功を、定着させなければなりません。 これまでの日本の気功の30年間は予行演習、試行錯誤の段階でしかなく、ある意味、気功はこれからスタートなのだということもできるのです。 どうせやるなら、本物の、気功をやり、普及させて行きましょう。 もっとも、何が本物なのか、今確定することはできません。今、気功をやっている人はみな、自分のやっている気功を本物と思ってやっているわけですし、今自分が習っている先生を本物だと思っているのですから。 |
||
トップページに戻る | 隣のページ2へすすむ← | →隣のページ13へすすむ |