13 Q&A  
 Q 気功と、ほかの健康法との違いはなんですか。いろいろあると思いますが、根本的に違うという点はありますか。 A 気功にとって、健康法としての価値は、その一部です。しかし、この点についてはまた別のところでお話しします。
 根本的に違うところ、独特なところはあるか、という点に絞ってお話ししましょう。気功を始めて、これはヨガとは違うな、ピラティスとも違うな、フェルデンクライスとも違うな…という。どこが違うのか。それは、気功以外のメソッドは、身体そのものを対象にして、身体をそのまま扱うのですが、気功は「気の身体」を扱うのです。気功を指導している人の中にも、この観点が抜けている人がおりまして、それですと、気功と名乗っていても、中身はゆっくり体操、のんびり呼吸にしかすぎない。つまり、形だけ、気功っていうやつ。
でも、「気の身体」を扱っている、「気の身体」と会話しているという実感をもって気功をすると、充実感が異質なものになります。
「気の身体」というのは、つまり、生身のこの身体の中身は気でできていると認識することです。現代科学では、生身のこの身体は、もの、物質でできています。骨や肉や内臓や血でできていますね。その骨はカルシウムでできてるとか、肉は窒素と炭素と水素と酸素でできている…という具合に、物に還元している。じゃ、そういう元素を寄せ集めれば、身体になるか。なりませんよね。生きた人間として活動するためには、いのちを吹き込まなければならないじゃありませんか。じゃ、いのちはどうすれば身体に突っ込めるの。第一、いのちって何なのか。
「気の身体」は、肉体だけじゃない、命も心も含んでいます。ただし、肉体の素、命の素、心の素です。気とは、生きた人間の肉体の素、命の素、心の素のことです。
気功を長いことやってきましたが、気の正体の、ほんの一部が見えてきたなと思います。 
 
 Q 気功をするということは「功法」をなぞるということなんですか?   A いきなり、すごい質問ですね。
 さあ、先輩の皆さん、指導員の皆さん、どう答えますか。お里が知れてしまいそうな厳しい質問です。
 30年近く前、気功を始めて間もなかったころは、気功を習うには中国の先生から直接習うのがもっとも確実でした。だって、日本人は誰も気功を知らなかったんですから。
 その中国の先生方は、みんなご自分の先生から習ったとおりに教えようとしました。その方法というのは、先生の動きをそのままなぞる、見習うという方法です。先生の動きは「型」にもとずいています。その型のことを「功法」といいます。つまり、テキストがあって、テキストに沿って順番に教えるのです。ですから、ある程度慣れてきたら、テキストを暗記して、それを復唱するようなやりかたで気功をします。
 それで、私たち日本の気功の第一世代の者は、功法を覚えることが、気功の第一ステップなんだと、思い込んでいました。それはたぶん、太極拳の習い方・教え方と同じだったのではないでしょうか。太極拳には練拳(稽古)のための套路(ルーティーン)があって、その套路を何度も何度も繰り返しながら、少しずつサマになっていく。歌もそうだし、芝居も踊りもそうですよね。日本の気功は、最初太極拳を習いに出かけていった人がついでに今流行りの気功を習ってそれを持ち込んだ…ということもあって、歌で言えば楽譜を持ち込んでそれを再現するというような感じで覚えたものでした。
 しかし、太極拳をマスターするということは、その套路を正確になぞることではないですよね。太極拳は武術ですから、キャラバンの護衛のために雇われた用心棒が、盗賊から太極拳を用いて守ってはじめて役に立つわけです。守れなかったら、いくらきれいに動けても、意味がない。
 じゃ、気功はどうか。気功にも、功法があり、多くは套路があります。八段錦とか六字訣とか亀蛇気功とか。そういう型の寄せ集めのパックになったもの、定食のように揃っているものを套路功法といいます。
 それを順番どおりに覚えたら、それでいいか。かつては、それでいいと思っていました。歌を覚えるのと同じ気分でした。歌詞を読まなくても楽譜を見なくても歌えるようになったら、次の新しい歌を覚えるみたいに、次々に功法を覚えようとしたものです。
 でも、歌にも愛唱歌というのがあるでしょう。誰に聞かせるのでもない、自分の心と響きあう、いつ歌っても、何度歌っても、飽きないし、歌うたびに元気が出たり、心が癒える、そんな歌が。優れた功法にはそんな魅力が潜んでいます。昔から伝わってきたものはそういうものがたくさんあります。ですから、そういうものなら、功法をなぞることは気功をすることだと言えると思います。
 けれども、その一方で、くだらない歌もありますよね。功法にも、しょうもないヤツがあるんです。そういうのは、気功をしたことにならない。形だけです。
 太極拳だって套路を用いずに伝える先生はいるでしょう。だって、日本の相撲は、これまた武術ですが、個別の技や基本の所作を繰り返す稽古はありますが、四十八手の連続した一人でする型稽古はないのですから。気功にも、套路のない功法はあります。例えば周稔豊先生が伝えた五禽戯の第一套。つまり、功法には套路(ルーティーン)のあるものとないものがあるのです。功法というのは気功の実践法ということです。
 しかし、その型もないような気功指導は、あるかもしれませんが、これはちょっと危ない。先生の指導なしに自修することが困難を極めるからです。それに、先生が優れているかどうか、生徒には判らない。私は、功法とくに套路功法が客観的にあると、それが衆目にさらされるわけですからその功法はきっと洗練され鍛えられることになると思います。私はそれを期待して、いくつかの功法を作りました。作って、入門気功の素材として提供したのです。指導責任をはっきりさせるためです。気功のABCを教えるのに、人のふんどしならぬ中国の先生の功法を寸借するなんて、責任転嫁のそしりを免れませんからね。
 さてそろそろ、質問に対する答えをまとめましょう。
 気功には、理と法があります。また体(テイ)と用があるのです。法なき気功は死。理なき気功は無。理と法は相互補完的な柱です。体なき気功は浮。用なき気功は遊です。体用兼備にしてはじめて功(進歩)があり、効(実利)があります。
 つまり、気功をする以上は、いつまでも功法にかまけていてはなりません。功理を身につける必要があります。また、型稽古もせず、手がびりびりするだの気持ちがいいだのリラックスして落ち着いたと言って気功をしたつもりになったってナンボのものでしょうか。それは気の遊戯にすぎず、功(積ミ重ネ/成長/進歩/洗練)とは無縁です。功ではなく「慣れ」にすぎません。
 結論。気功をするとは、功理を学び、功法を実践することです。功法をなぞることはその重要な一部です。おろそかにすべきことではありません。功法の中に、功理を見つけられるようになると、功法を自分なりにデフォルメさせて身につけることができるようになります。功法と向き合う自分だけの時間が必要です。教室で皆さんと一緒にするだけではなかなか功法の魅力を味わえません。
 
 Q おなかの調子が悪くなり、以前に習った胃腸によいという気功をやりましたが、即効性がなく、ちょっと落ち込みました。やり方がまずかったのでしょうか? A ばかもん! 気功は症状軽減法じゃない。悪くなって気がついて、あわてて糊塗することを、付け焼刃といいます。それは下患者・下医のやり方で、もっともタチが悪い。なかなかよくならないということです。やり方がまずかったのではないと思いますよ。きっといつもより真剣にやったんじゃないかな。
 気功はいざという時のための非常持ち出し用品ではなく、日常品です。日常やっていると、身体感覚が鋭敏になり、小さな異常に気がつくようになります。そしてどうしてそうなったか、どうすれば治せるか、ごく自然に答えを見つけられるようになります。自分のことがよく分かってくるんですね。少なくとも慌てなくなります。答えは気功は体調の善し悪しに関わらずやること、です
。 
 
     
     







































































































































 トップページに戻る