あらためて考える 気功とは何か   
         
   気功とは、自分で「気の身体」を調え、
さらには洗練させる行法です。
気の身体が調えば、
血肉の身体(肉体)が調い、心が調い、息が調って、気持ちが落ち着きます。
もし心身の不調があれば、気功をすることで
自然治癒力・自己復元力が働いて、調子は上向き、快適になっていきます。

さしあたって問題がなくなれば、気功の効果は体質改善・気質改善に向かいます。 
 
 
    気功は、その名のとおり「気を洗練させる行法」です。
では気とは何で、どんな気があるか。
私たちの会で扱っているのはおもに身体の中の気で、これをいじくり回すのを狭義の気功ということにしますが、少なくともいのちあるところには気がある。気が集まっていのち(生)となるのですから。植物にも、虫にも、バクテリアにも気が宿っている。ですから気の交流の道具であるハンドパワーを使えば、草花にも虫にも気は届くわけです。
自然の気はどうか。天気、地気はある。空気はどうか。気功では扱わないのか。宇宙に遍満している気といのちの気は違うのか…。ここまでくると実学の範疇を越えて哲学の問題を含むことになる。占星術も気功だと言い張ることもできるわけです。
天気・地気を扱うのは気功家の仕事ではなく、風水師の仕事というべきですが、むかしは陰陽師と言って、暦学も扱った。広い意味の呪術師ですね。日本では加持祈祷の専門家がいて修験道の行者が里におりてきて需要に応じたものです。狭義の気功と通じるものはあるけれども、私はあまり遠くまで行かないことにしております。でも通じるものがあるのですから、人によっては「よい気場」を求めてあちこち出かけます。パワースポットとか聖地とか。こういうのにはキリがありませんので、超越的にならない戒めが必要です。 
 
       
舒暢寛明  ●気功とそのほかの心身技法との決定的なちがいは、
始める前に、心身のリラックスを要求すること、やっている最中そのリラックスを維持すること、終わったらリラックスを解除することです。

■その心身のリラックスを、気功の専門用語で『放鬆』『入静』といいますが、科学の用語に翻訳すると、
脳の前頭前野の脳波がα波で安定している変性意識状態ASCです。この状況を「気功態」といい、普通の生活意識状態である「日常態」と区別します。

●気功態では自律神経レベルで副交感神経優位となり、感覚神経・運動神経レベルで錐体外路系神経&運動優位となり、不随意神経優位となります。

■この気功態に、正確な望ましい姿勢・動作・呼吸・感情・思考の「型」を導入し、「新たなクセ」をつけるのです。これを長期間にわたって繰り返すことによって「新たな正しいクセ」がつき、心身は自ずと洗練されていきます。

●気功をしているうちに病気が治るのも、この「新たな正しいクセ」が身について、病気を維持・増悪する心身条件の土台が崩壊するからであって、自然治癒の過程にすぎません。そして、病気が治るのは、気功の「効果」のほんの一例にすぎません。

■どんなに気をつけていても、持って生まれた素質をまるごと変換してしまえるほど気功の力は及びませんから、気功愛好家も、著名な気功の先生も、ほぼ例外なく病気になって死んでしまいます。
● でも、気功に親しんできた人は、たとえ病気になっても、病気を恐れず、病気を苦にしない心の力を身につけているはずです。たとえ死に直面しても、きっと死をおそれず、死を受け入れる心の力を発揮することでしょう。人生の最後の場面ででどんな病気で死んだかなんてたいしたことではありません。

■寿命が迫ってきた時、自分の中の神がおまえさんどんな病気で死にたいかと聞いてくる。潜在意識がじゃあ肝臓ガンにします…とか、そういう問答の結果にすぎない。

●気功を続けていくと、自分で自分のことを認められないと、気功の効果を受け取れないということが解ってきます。しかし葛藤があっても、続けていくと、だんだん自分のことが好きになってくるのです。大好きというほどではないけれど、まあいいんじゃないかと。それは自分に甘いということとはちがいます。この肯定感がないと、自分自身の進歩も感じられないし、自信も自尊も生まれようがないからです。

■どうも
気功は、心身に《弾力》をつけてくれるようです。性能が向上するわけです。強くなるのではなく、しなやかになる。
身体のほうは動きにキレが出てくる一方粘りが出てくる。
心のほうは厳しさを保ちながら
舒暢寛明を地でいくようになる。
たぶんそれが銘々の《自分らしい》姿の理想に近いのではないでしょうか。

●あとは《よい先生と、よい気功に出会えるかどうか》ですが、求めよ、されば与えられんですね。
  
   
       
  グローバルスタンダードへ 1 翻訳気功論はダメ
気功は中国から入ってきましたので、日本では中国語からの翻訳によって理解され、解釈されてきました。でも、どこか違う。同じ漢字を用い、歴史文化を共有しているのに、心から納得できない。どうやら日本人と中国人とでは思考回路が違うのです。

そこで、今ここにある成熟した

気功を、日本人の感性と思考に配慮しながら説明しなおしてみよう
と思います。

2 気功の種類
たくさんの気功があります。整理分別してみましょう。

硬気功と軟気功。
外気功と内気功。
古典気功と現代気功。
武術気功と医療保健気功と修養気功。
練養気功と安息気功。

これらはみな個人で学び、習得し、利用するものですが、中国にはもう一つ、奇妙なジャンルがあります。
宗教気功です。
新興宗教の隠れ蓑として、気功が前面に出て人々を誘い込むのです。手当て手かざしで誘い込む宗教団体は日本にもありますが中国の宗教気功はちょっとちがいます。集団で練功し、生活に規律を持ち込みます。気功から除外した方がいいでしょう。もっとも、1999年の法輪功弾圧事件以来、宗教気功は壊滅しましたが。

3 外気功
これは、医師が「気」を操作することによって患者に医療効果を与えるものと、武術家や宗教家が「気」を操作することによって相手を支配したり倒したりするものを言います。
手当て、手かざし、目力などを用います。その多くは対峙する相手に影響を与えるだけですが、遠隔操作によって目的を果たすものもあります。
訓練すれば、誰でもある程度はできるようになるものと、先天的な素質が備わっていないとできないもの、特殊で異様な訓練によってのみできるものがあります。後二者は、このサイトでは扱いません。
どんな気功であれ、気功と呼べるものであれば、その目的は、普通の人になることで、特別な人になることではありません。

4 内気功
内気功は、内気を扱う気功という意味で、軟気功・古典気功・現代気功・武術気功・医療保健気功・修養気功・練養気功・安息気功のほとんどを内気功としてくくることができます。
ふつう気功は、この内気功のことをいいますから、
内気功とは気功という大枠の中から硬気功、外気功、宗教気功を除外したものと考えてよいでしょう。

ちなみに硬気功というのは怪力剛体を見世物にする特殊気功です。1980年代に中国医療気功の華であった外気治療(ハンドパワー、念力治療)とその亜流を別枠で扱うことにすれば、気功の定義はよほどすっきりするのです。
最近、中国で食いっぱぐれた気功師が日本にやってきて気功治療を業としていますが、気功の普及とは無縁の存在です。外気治療は慎重に扱われなければなりません。それに、ほんとうにそれができる人はほんの一握りにすぎません。千万人に二、三人いるかいないか。そのくらい少ない。
内気功の本質は、自分が、自分の心身を対象として、自分のために、自分でするところにあります。

5 内気功の種類
次に、内気功を分類してみます。
古典文献に示されている、その当時は気功という名前ではなく、導引、吐納、静座などと呼ばれていたもののうち、今日気功と見なすことができるものを古典気功といいます。
現代気功とは中華人民共和国成立後に気功という概念のもとに発表された雑多な体術をいいます。
武術気功とは、少林拳、太極拳、形意拳、心意拳、八卦掌などの中国武術の築基功であったものを、軟気功にアレンジしたものをいいます。
軟気功というのは動き・呼吸・意識を穏やかで柔らかくゆっくりで丁寧な形態に調えた気功のことです。
医療保健気功とは、その名のとおり、病気を治し、健康を取り戻し、病気を予防し、健康を増進することを目標に据えた気功で、その多くは1970〜90年代に創作されたり、古典気功をアレンジしたものです。狭義の気功です。
修養気功と練養気功は見方が違うだけで中身は同じです。一応健康な人の日常の気功です。自己鍛練、心身調律のニュアンスを含みます。

安息気功というのはここで気功を説明するために仮に作った造語です。
気功をすることを練功するといいますが、練功という言い方には訓練する、向上する、積み重ねる、努力するという気分があります。そういう生真面目さからも逃れたい人は、日常の険しさ厳しさ不快感から離れて別世界で遊んでいたい。覚えたり、研究したり、工夫したりする、そんな自主的なことも放棄したい。淡い悦楽にひたって仲良くしていたいものです。しかもそういう自覚もなくただ気功のやわらかな雰囲気を味わうのを、あえて安息気功といいます。

6 気功の特質
気功は功理と功法の組み合わせです。
功理なき気功は無。功法なき気功は死です。

生きた気功は
@心身のリラックスA気の身体B遊心の三要素を含みます。

遊心というのは心を遊ばせるということで、遊ばせるのは自分です。気功をしている時は自分が主人です。気功をすることで自分が自分を認め、自分を好きにならなくてはなりません。
そのために必要な条件があります。それは「静寂」です。心を静かに保つこと、心に静の基地を作ることです。
そこで、気功入門第一章は、静を演ずることから始めます。

7 気功の本態
気功をしていると、どんなことが起きるか。
気功をする前に、リラックスを深め、安定させるために準備体操ストレッチなどをしますが、そうすると、前頭前野の脳波がα波主調に変化します。
これは大脳優位から小脳・脳幹優位へ、左脳優位から右脳優位へ、大脳新皮質優位から大脳旧皮質・辺縁系優位へとシフトしたことを意味します。

この状態では、神経も随意神経優位から不随意神経優位へ、錐体路神経優位から錐体外路神経優位へとシフトします。
いわば、脳神経の進化のプロセスにおいて1ランク古い資質のレベルに落として体活動・精神活動を行なうわけです。
いわば「私」の原基を調えるのが、気功の内実、本態なのです。      

8 グローバルスタンダードへ
日本の気功の課題は、中国気功が逃れることのできない文化ナショナリズムと前近代的後進性を解体し、コンテンポラリーな言語によって書き換えることです。そして、世界中にすなおに通用する「取り扱い説明書」を提供することです。
このような志向性なくして、気功の日本における普及はありえません。

9 気功とは何か
最後に、気功とは何か。端的に示したい。
気功とは、内なる静に親しむ心身の素養。逍遥遊の技法。
あるいは、いのちの自然をはぐくむ自己調律法。
あるいは、気の身体を浮かび上がらせ、これを洗練させる身法・息法・心法。
あるいは単に、気の質を高めるレッスン。

いや、気功は言葉では説明しにくい。説明する方も、アタマで理解してもらおうとは思っていないのです。気功は体験なのだから。
すなわち、このページも、体験への勧誘なのであります。
  
 
       
 

気の世界

 では、『気』とは何か…

そもそも、雑多な伝統的な心身技法をとりまとめて名前をつけようということになって、気の功、《気のトレーニング》という意味の気功にしたのですから、中国人が気をどうとらえていたのか、あるいはとらえようとしていたのか、吟味してみる必要があります。

というのは、中国人の気と日本人の気は、ちょっとちがうからです。大雑把に言えば、中国人の気は物質的で、日本人の気は感覚的です。昔からそうであったかどうかは分かりません。

しかし、1980年代は、中国にとっては、革命から30年たち、いわば社会主義的精神あるいは唯物主義的思考が一定の完成度に達した時期でした。
感覚的なものを説明の根拠にすることは、社会主義的精神からの逸脱と考えられていました。この時期たとえば、心理学は中国では唯心論の病巣のように考えられていましたから、心理学的に気功の効果を説明すること自体が不可能でした。そういう条件の下では、気は物質的なものとしてしか表現できなかったのです。

当時、中国では外気功が花盛りでした。
「気としか言えない未解明の微細な粒子が気功師の手から発射されて、病気の患者の肉体の内部に達し、患者の内部で不足または過剰状態に陥っていた気の流れを回復させる」と、大まじめに語られておりました。
したがって有名な気功師のハンドパワーを解析して、「気」の正体は超音波であるとか遠赤外線であるとか、それらのブレンドされたものであるとか、言われ、いくつもの「外気発射装置」が製作され、それを浴びたら○○先生の外気治療を受けたのと同じ効果があると宣伝され、売り出されました。
その一方、外気は物質ですから、外気を発射した気功師はエネルギーを放出するため疲れ果ててしまうことになり、それを補給するために気功をするのであると、言われておりました。
そういう荒唐無稽な説明を、今でも中国人は好むのですが、それはある意味思想的自由のない中国では仕方がないことです。

しかし、気功をする日本人がこの説明を鵜呑みにして、気功を始めたばかりの人にそのまま吐き出すように説明するというのは、お人好しというより、無能または破廉恥というべきでしょう。
それが、上欄の冒頭に書いた「翻訳気功論」はダメという意味です。


気功が日本に紹介され始めてまだ間もないころ、気功のブームに乗じてあるいは懸念をもって「気とは何か」という議論がかまびすしかった理由はそこにあります。

しかし、残念なことに、日本の在来の「気の使い手」たちは、科学的思考を持たず、科学的関心を持っていませんでした。
科学者は、ほんの一部の人を除いて気功を遠巻きに眺めながらゲテモノ扱いして、気功の本態を解明しようとはしませんでした。
そしてそのうち、気功のほうがコケちゃった…というわけです。

…では長年気功に親しんできた、一握りの?人たちは、気功で扱う「気」をどう捉えているでしょうか。
ある人は、気の説明は適当にさっさと済ませて、気功の説明をします。気功はとりあえずここにありますからね。体験できますし、それなりの効果もその場で得られる。どうすれば効果を高められるかも、経験的に知っています。気のへたな説明をするヒマがあったら、気功をしたほうがいいのです。


しかし、気功をしていると、この感覚は「気」の感覚としか言えないという体験をします。
また、武術家の気合とか発勁を受けてみると、気が突き刺さる感じや強く浴びせられる風圧を感じます。
それは錯覚ではなく、発する側も受ける側も共時的なリアルとしての認知です。

日本の合気道の達人や剣道の達人、太極拳・形意拳・心意拳・八卦掌など中国武術の達人はみな「気」を発射することができます。これを「発勁」といいます。
ですから「ほんとうに気で人を飛ばすことができますか?」
という質問には「ハイ」という答えになります。
飛ばされてみたい人は、飛ばせる実力のある人で飛ばしたい人のところに行きなさい。飛ばしてみたい人は飛ばせる実力のある人のところで飛ばし方を習えばいいだけです。

私は飛ばせる力はないし、飛ばしたくないし、飛ばされたくもないので、発勁とはちがう「気感」によって「気功で用いられる気」を説明してみようと思います。「気」はあまりにも多様です。ここでは「気功の気」に限定して説明することにしましょう。


気功を修辞的に言えば「静中の動を練り、動中の静を練る」ことです。
前者は《自発動》へ連なり(自化)、後者は《静功》へと収斂する(自定)のですが、この変化を導くにはリラックスと集中が保たれていなければなりません。ここでいうリラックスは気功の専門用語で身体の鬆、集中とは同じく心裏の静といいます。

気功の最中、姿勢を保つにも、動作にも、息にも、はじめは随意的な緊張を伴う(つまり力みが残る)のですが、その力で保ち、動く感じが薄れていくにつれて、惰性的・慣性的・自動的になってきます。これを「力を気に置き換える」といいます。
そのとき、身体は一様に気が満ちていて、ただ重力と気圧にのみしたがっている感覚になります。ゆったりした呼吸や静かな動きによって身体の内部の密度が変化するのがはっきり感じ取れるわけです。これこそが「気感」と呼ぶべき感覚です。
この受動的な感覚を、能動的な感覚に転じることができれば、あとはそれを洗練させていけばいいのであります。

これは人によって少しずつ感覚もちがい、表現も異なりますが、同じ感覚のことを言っていることが互いに分かりますので、これが気功の「気」のことかと納得することができるにようです。
つまり、「気」は客観的にこれだと示すことができないという特徴があります。主観的に納得した内容を互いに正確に了解するような対象なのです。いわゆる以心伝心的対象です。

近代以前の社会では、このような技能の伝承は主流であったと思われますが、科学的学校教育は、それを否定し、一掃しました。
そのため、「気」は中身のない空疎な言辞として、取り残されているかのようです。
実際、「気」は体験でしか了解できないにもかかわらず、合理的な説明を求められ、またそれをこころみるという徒労は、滑稽なことでさえあります。
ここでは、中国の、気功を「科学的に」説明しようとした唯物主義の無能と錯誤を指摘するにとどめたいと思います。


中国では、太極拳をはじめとして、国家が関与すると気功も武術も体操に堕してしまうようですが、古典伝統武術の世界に気の文化はかろうじて生きているようです。医術の世界も国家が関与すればするだけ気の感覚は薄れています。
むろん気功も例外ではありません。

では日本ではどうでしょうか。
武術でいえば、もはやスポーツと化した柔道は論外ですが、剣道にはまだ気があります。合気道にもあります。相撲にもあります。能にも、歌舞伎にもあります。書道にも、華道にも歌謡にもあります。また鍼灸や整体にもあります。

もっとも、気が解り使える人がまだいるということであって、大半は気と無縁の動きなのですが。

こうした状況はみな、気功の困難を助長しています。しかし、気功はまだ異端ではないし、秘伝でもありません。
気の世界が分かる人が独善に陥ったり、ひねくれてしまわなければ、気の世界で気功が果たす役割も見えてくるのではないかと思います。

 
 
         
         
         

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