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気功は体験です。 気功をしている人を見ても、何をしているのか解らない。実際、じっと突っ立っているだけだったり、ゆらゆらと軟体動物みたいにゆっくり動いているだけで、得体の知れない不思議な感じがしますよね。 けれども気持ちよさそうだし、やっている人の穏やかな明るさはなぜか魅力的です。 見ているだけでは、つまらない。理屈じゃ解らない。 包丁で指を切って血を流したこと、あるでしょう。血が止まったあとも傷口がズキンズキンと痛みますね。 ズキンズキンは、拍動です。心臓の収縮のリズムです。 ケガをする前もずっと同じように脈打っていたはずですが、ズキンズキンは感じられませんでした。 どうして傷口で感じるのでしょう。 それは、傷口で神経が刺激され、痛みとして知覚され、その部位に気が集中するからです。 傷がなくたって、ある部位に意識を集めると、気が集中してきます。これを、気が集まるとか気が立つと、いいます。その部位が脚光を浴びたように感じます。照らされている感じです。 たとえば、自分の掌を見つめてみましょう。じっと見るだけです。 では、準備。まず両掌を合わせます。だいたい同じ大きさですね。ちょっと長さがちがうところなど、覚えておきます。そして片手だけ、左手にしましょうか。左手の指をほどよく開いて掌をじっと見つめます。掌と目の間は40センチほど。それだけ。 力を入れていっぱいに開いてはいけません。反らせてもいけません。自然に開いたままにします。そのまま2分間。 では、両手を合わせてみましょう、どうですか。 見つめられた左手が少し大きくなっていませんでしたか。 |
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大きくなっていたら、大きくなった理由を考えてみます。 私たちの(気功を教える立場の)経験では、半分以上大きくなります。でも大きくならない人もいます。 大きくならない人にはいくつかの特徴があります。 それは注意にもかかわらずいっぱい開いて指を突っ張って頑張ってしまう人。またそれとは対照的に警戒心丸出しで掌をろくに見ずに冷やかな気分で白けていた人。共通するのは、作為的であること。期待が大きすぎたり、そんなことあるわけだない、と思えば、見つめた効果は現れません。 それに対して、すなおに見つめた人、ただ見つめ続けた人には大きくなるという変化が現れました。 見ている間に、掌で何が起こったのでしょう。とくにリラックスしなさいと言われたわけではありませんし、言われないのにリラックスしてしまったというわけでもありません。そうです、リラックスではなく集中が問題なのです。しかもその集中は緊張を伴っていません。ほどよい意識の集中、目を使う場合はただ集めるのではなくて、穏やかに見つめるほうがいい。それを自然な集注といいますが、これを、気が集まる、と言い換えてもいいのではないでしょうか。日本語では、無理のないいいかたです。ただし、科学の用語としては適当ではありませんが。 気功のレッスンでは、この「ほどよい意識の集中」を維持しながら、呼吸を調えたり、姿勢や動作を変化させたり、逆に固定させたりします。「ほどよい意識の集中の維持」は、なかなか難しいのですが、これも一種の慣れで、少しずつ上手になっていきます。この意識状態を15分間程度続けると、体から余分な力が抜け、心は落ち着き、気分はすっきりします。血流がよくなり、自律神経が安定し、リセットされた感覚になります。心身に、ごく初期的な変化が現れるわけです。 一人ではなかなか結果を出せないこともありますので、気功の経験のある人と一緒にやると、共振作用が起こり、この気功的「湯上がり」気分を味わえることが多くなります。 いろいろなタイプの気功があります。どれがいいかは、人によってちがいます。いくつか体験してみて、自分に合った気功を見つけてください。よい先生に出会えれば、気功は、終生の宝物になります。 |
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気功を始めたいと、門を叩いてくる人の多くは、健康のためです。健康法はいろいろあるのですが、その中で気功を選んだのはどうしてですかと聞きますと、自分は運動が苦手だけれど気功ならできそうだから、と。 または医者や薬やサプリに頼っているだけではダメだと思うようになって、じゃあ何をするかとなって、気功にした。気功は頑張らなくていいみたいだから、と。 気功は、先生によるかもしれませんが、福岡気功の会では、難しいことは言いません。いい加減です。サボりも、遅刻もOKです。とにかくすぐに成果を求めず、気楽に気長にやっていただきたいので、自分にぴったりの先生と教室を選んでくださいと勧めております。 福岡気功の会には、20年以上も続けている人がかなりいるのですが、健康になりましたか?と聞きますと、「いえ、病気にもなったし、入院もした。病気になって気づいたことがある。それは、病気になっても以前のようには心配しなくなったし、何か大丈夫と思えた。元気になってから振り返ってみると、そう思えたのは気功のおかげじゃないかと思ったんです。」…とまあこんな感想が返ってきました。 気功をする目的は、人それぞれでいいのです。ただ、気功をするにあたって、独占的・支配的な環境は気功的ではありません。つまり、学ぶ立場であっても、先生や功法に頼りきってはいけないということです。 気功という名前もない時代の昔の「気功」は、一種の修行で、今の世の中で、あるべき人としての理想に近づくための日々の修養でした。今日の気功にもその要素は残っていますが、現代ではそれよりも、自分らしく生きていくための素養という意味合いが強いと思います。つまり社会にはいろいろな強要制約があって、抑えられることが多いために、それに順応できない自分、できない自分をダメだなあとか、嫌な性格だなあ…と、思ってしまいがちです。自分のことが好きでないと、ものごとはなかなかうまくいきません。 気功は、その実践を通して、あるがままの自分を好きになる練習をしていると言えます。好きと思える自分にしていくと、言い換えてもいいでしょう。自分に自信が持てて、いつでも自分を思い切り励ませたら、いいと思いませんか。 |
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「気が上がる」という表現がありますね。 いらいらは気が上がってとがっている。 にたにたは気が開いて緩んでいる。 おろおろは気が堂々巡り状態。 くよくよは気が落ち込んでもがいている。 びくびくは気が萎縮している。 …という具合に、気は感情によって動き、感情が凝固すると、気は腐るのです。人にはそれぞれ気のクセがあって感情に流されます。そして気を浪費してしまいます。 気功は気のクセ直しのレッスンです。 余分に怒ったり、喜んだり、悩んだり、悲しんだり、恐れたりすることで疲れたり後悔したりしないように、気を上げたり下ろしたり広げたり縮めたりして、ほどよい動きを身につけて、気のレベルで感情の動きを修正するのです。 |
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気功の中には、手足を巧みに動かしていかにも身体を洗練させていくものが多くありますが、足はほとんど動かさず、手もぶっきらぼうに上げたりおろしたりするだけのものもあります。 そういう気功は手足を象徴的にあつかっていることがうかがえます。ある意味手足が言語なのです。天・地・人との対話と言えるでしょう。つまり、人間が大自然の中にあって、その恵みによって生きていることを感謝する祈りのような気功があります。 新中国になってからできた保健気功にはありませんが、古い伝統的な気功の中にはいくつもあります。 そういう気功をしたあとは、気功で健康になろうだなんていうのは、なんかちっぽけなことのように思えます。病気であることを忘れさせてくれるのですから。 ちっぽけな自分。ちっぽけな人間。でも、愛すべき存在なんだよな…みたいな気持ちになります。 健康とはちょっと違う心地よさ。とても、気持ちがいい。気功の醍醐味です。 |
※はじめての方のための《気功とは何か》は以上です。もっと多角的に気功を知りたい方は、気功を始めて間もない方のためのメュー《あらためて…気功とは何か》(次ページ)におすすみください。 |
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