日本に気功が「輸入」されて30年以上になりますが、
日本人の手になる「気功論」「気功学」はまだないのです。
まことに由々しきことではありますまいか。
不肖山部嘉彦は孤軍奮闘してきましたが、
今なお系統だった原論を発表するに至りません。

粋がってここに雑々文を掲載してもたいした意味はありませんが、
備忘録にはなるか…と思い、
自薦の、読むに耐えると思われる、
気功に直接関係する小論をピックアップしました。

まじめな全国各地のの気功愛好家の目に留まれば幸甚です。
 
     どんな顔つきで静坐をするか
                                       
鬆静自然 
気功をして効果を実感したければ、心身ともにリラックスしてから始めることです。リラックスには身体のリラックスと心のリラックスがありますが、むろん、両方とも大切です。
気功の専門用語で、身体のリラックスを「鬆」といいますが、これは身体が強張りを解き、ゆっくり伸び、膨らんでいくイメージです。動きの方向は「放」となります。開ですね。
心のリラックスは「静」といいます。これは心が落ち着き、中心に集まってくるイメージです。動きの方向は「入」で「合」。             
この鬆静がともにうまくいくと、心身のリラックスは表情(顔つき)にも反映されます。つまり顔も「放~開」でゆっくり伸び膨らんで、かつ「入~合」で落ち着き中心に集まってくるのです。どんな顔つきになるでしょうか。

気功のテキストに述べられた顔つき      
従来のテキストにはどう書かれてあるでしょうか。まず首すなわち頸部・頭部・顔面について、どんな要求が述べられているかといいますと「唇を閉じ、歯を合わせ、舌を上顎につけ、目をわずかに開いて鼻先を見る」とあります。また、「鼻と臍を向かい合わせ、両耳を結ぶ線と両肩を結ぶ線を平行に作れ」とあります。  
どこかで聞いたような、堅苦しさが感じられませんか。実はこれ、天台小止観(6世紀の隋の高僧智顗(チギ)が著した坐禅儀)からの引用ですね。この小冊子は紛れもなく仏教の経典ですが、この中にはなぜか「丹田」や「六字訣」の語が見えます。これらは道教系の養生術の専門用語です。
道教というのは老荘思想や神仙術をもとにした宗教で、その修法である導引吐納行気などは気功の淵源になっています。当時、まだ仏教は中国においてインド西域から伝来した新興勢力というかニューウエーブだったため、教義を説明するのに、当時のインテリにとっては常識だった道教の知識を仏教普及定着のために援用したのでしょうね。

坐禅と静坐は別系統
 それが、今日にあっては、気功のサイドが逆に、仏教の瞑想(坐禅)のやりかたを引用している。なぜでしょう。その答の一つは仏教もまた気功の淵源の一つだから、坐禅だって気功だ、という考えです。有名な易筋経だって、湯先生の金剛八式だって、香功だって仏教気功だ。坐禅を気功瞑想の一つととらえてもいいじゃないかというもの。
 もう一つの答は、道教にも瞑想があるけれど、何らかの事情で封印され、現代気功として登録されなかっただけだというもの。
 道教の瞑想の中でよく知られたものに古典 『二十四気導引座功』があります。季節の導引のあと必ず唾を貯め、漱いでから呑み込み、瞑想します。これはたいへんいいものですから、私の教室でもよく取り上げ、実修します。
 それなのに、なぜ現代気功としてその瞑想法を踏襲しなかったのでしょうか。
 私の推察ですが、初期の気功指導者たちは、道教の修行体系から導引や吐納(動功や呼吸法)を取り込みましたが、伝統的な瞑想静坐は意識的に除外したのです。説明の中の独特の非科学的な要素を嫌い、静坐を敵視した毛沢東の沽券を恐れたからでしょう。

気持ちのよい瞑想は是か非か
 だからといって、坐禅のやりかたを気功の静功に導入するなんて無茶な話しです。なぜなら、坐禅は考えることを強要するからです。考えるために目を開けておく。真剣みが増していくにつれて口元も締まり、への字になってきます。目を閉じて顔をゆるめたら、ふつう人はじっと考えられずに眠ってしまうからです。     
しかし気功は考えない。思うに似て思わずです。しいて言えばぼんやりを保つ。ですから気功をしている人は静坐はもちろん立って行なう站樁功でも目を閉じて行ずる人が多い。目を閉じている人に共通しているのは気持ちよさそうにしていることです。静坐だと寝てしまう人もいますが、必要な眠りですから、寝たっていいのです。坐禅はどうでしょう。目を閉じて気持ちよさそうにしているなんてとんでもないことです。坐禅は真剣勝負の修行ですから。悔いのないように最善を尽くす、後も先もないこれっきり、一期一会、ですから。
私は、数えるほどにしか過ぎませんが、坐禅の経験があります。どのお寺でも毎回座るたび、警策で必ずぶっ叩かれました。なっとらん!と思われたからです。どこか判らないけどなっとらんかったんだろうなあと思ったものですが、今思い直してみると、目を閉じて気持ちよさそうにしていたからですね。黄檗宗の宇治の萬福寺では2回も叩かれました。この時は「気功をしている奴ら」に対する敵意を感じました。自分たちは日々厳しく修行している、だから気持ちよさそうにしていることを許せなかったのだ…と思います。

気功は頑張らない
 私は気功家ですから、気持ちよさそうにしていることを大切にします。姿勢も、顔つきも、気持ちがいいのを追求します。難行苦行は、いけません。楠木正成でもあるまいに、苦痛を自らに科すのは、自虐です。
気功は、がまんしない、頑張らない、無理をしない。気功は自分を肯定します(目標)。反省しない。できれば気功を通じて好きになるように方向づけますから、静坐にかぎらず、集中できなくなったり、嫌になったらさっさとやめていいのです。
 ですから、気功瞑想は坐禅と全然ちがう。同じに見えるのは《背すじを立てたまま座ってじっとしているところだけだ》と言っていいくらいです。
 表面的に似ているからといって、あれも気功、これも気功とかき寄せ、まとめてしまった大雑把な姿勢が、1990年代に自己矛盾となって爆発してしまったことは記憶に新しいのですが、それはさておき、気功の静坐ではどんな顔つきでやるのか、本題に入っていきましょう。

座り方
 顔つきの前に、気功にするための最低限の条件を調えましょう。まず、座るときの脚の組み方ですが、これは正坐か盤坐です。盤坐には自然盤坐、天地盤坐、天盤坐の三種類ありますが、もちろんどれでもよろしい。日本人は正坐から足を崩せと言われたら男は胡座(あぐら)、女は横座りになりますが、気功をするには背すじを直立させなさればなりませんので、両方ともいけません。
 盤坐の中でもっともらくにできるのは自然盤坐です。これは胡座をかいて下にある脛を外してからだの前に並べる座り方です。天地盤坐は仏教でいう半跏趺坐で、胡座の下に敷く脚を外して内側の脚の上に乗せる座り方です。ひざの幅は狭いほうがいい。天盤坐は結跏趺坐です。脚が長くて邪魔な人のための座り方です。ふつうの人は天地盤坐でまったくかまいません。要するに、左右の座骨が床に着いていることです。
 正坐は踵を外側に開き親指を中心で隣り合わせ土踏まずにお尻をすっぽり乗せ、少し後方に反らせます。男はひざの間に拳二つ、女は一つ開きます。
 ですから、骨盤が後屈していると盤坐も正坐もできないので静坐もできない。
 静坐をしたかったら、骨盤の後屈を直してからにします。後屈したままやると必ず背が丸くなり、鳩尾が窮屈になり、顎が前に出ます。気が通らないので、苦痛になってきます。やってはいけません。骨盤の後屈を直したい人のために『骨盤の後屈を矯正する』というパンフレットがありますから参考にしてください。

胴体と手
 背すじを立てたら、鳩尾を開きます。鳩尾を開くというのは肋骨を少し浮かせて鳩尾の面積を拡大する感じです。
 手は静坐の大切な要素の一つですが、別の機会に詳述しましょう。ここではただ、掌を上に向けて開きひざの上の置く、掌を下に向けてひざの上に置く、両手を重ねて臍の下、陰部の前に置くのどれかにします。どれも、肩を弛め、頸を伸ばして姿勢を調えます。

口の準備
 まず、舌を弛めます。舌は人によって「自然な状態」が違っています。理想的な自然状態は、口を閉じた状態で舌先が上顎の前歯の付け根の歯茎に軽く着いている状態です。でも、下の歯の内側を押しつけている人もいますし、舌の上にすきまがなく上顎にべたっとついている人もいます。口の中のまんなかあたりに丸まっている人もいます。老人だとまんなかあたりではなく、喉に近い奥のほうに固まっている人も少なくないのです。理想的な自然状態以外の人は、舌を弛めて、理想状態を意識的に作って保つ練習をしましょう。
 では弛めます。大口を開きます。親指を除く4本の指を揃え、小指を上にして立て、上下の前歯の間に挟みます。入りますか? せめて小指を外した3本分開いて、顎関節を弛めます。
 次に、大きく開いた口の下唇よりも外に舌を突き出します。それから両手で、つまり右手で右耳を左手で左耳を外方へ引っ張りながら、舌先を丸め、舌の両側を外側に開いて舌の表面を大きく開きます。舌先は丸く薄くします。
 そのまま20秒~30秒。
 耳を下から上に親指の幅分ずつ上をつまんで引っ張っては弛め、また上をつまんで引っ張るを繰り返し、上までいったら戻って耳たぶまで。これで30秒になります。
 手を外して、舌を口の中に収め、下顎の歯列の中にそっと引き込みます。口を閉じ、口の中で舌先を軽く上顎の前歯の根元の歯茎にそっと触れたままにしておきます。これで口の中の準備完了です。


 次に、目を閉じます。軽く閉じます。瞼のしたの瞳は約5°上に向けます。目を閉じたまま眉間を見上げる感じです。

督脈
 顎を軽く引きます。後頭の玉枕関(後頭骨の直下の頸椎との隙間)をそっと開くために引くのです。開くと督脈に沿って気が下から上に通り、頭頂(百会)をへて額の髪の生え際まで至り、額に出て左右に広がります。顔の全域がゆっくりと弛んできます。

衝脈
 背すじが立ち、鳩尾が開いていると、腹腔(丹田)の気が正中の体軸(衝脈)に沿って上昇してきます。頸を通って、顔面に噴き出します。顔面の中心は目と目の間の鼻梁の付け根の山根(サンコン)というところで、設計上はここを中心に放射線状に噴き出すのですが、実際には眼窩と鼻孔と口から噴き出して顔面を浸すのです。

顔の表情造成
 ですから、督脈に沿ってやってきて、百会からは下降して額に出てきた気と、衝脈に沿って体軸を上昇してきた気が、顔面で出会うわけです。それを、ほどよく調えるのが表情造成というものであります。

目の周り
 まず、目の周りを開く。
 眉と眉の間を開く。
 眉全体を上げる。
 眉山(眉のラインの中央より少し外側の、いちばん高いところ)を斜め外上方向(角の根元)に引き上げる。
 目尻を外方向に引く。

口の周り
 次に口の周り。
 口を軽く閉じる。口の中、舌弛んで落ち着いていること。唇の上下中央部を閉じる。唇を薄くする気分で上下軽く押し合う。10秒ほど押し合っていると鼻筋が立ってくる。鼻梁の麓のラインが沈んでくる感じ。小鼻の根元も絞られる。そうしたら鼻の頭を尖らせる。歯は前歯がかみ合わないように。
 唇は真一文字に結んで口角を締める。

頬と顎
 鼻梁の上端、目頭のすぐ内側から鼻梁の麓のラインに沿って小鼻の根元を外に開き、頬骨の下縁をU字型~八の字末広がりに外に開いて耳の前まで引き、それにつれて口角が引き上げられる。
 あえて言えば、アヒル口。おだやかなアヒル口になる。
 耳たぶから下に、下顎のえらの角から骨に沿って内側に絞ってきて頤(下唇の下)を斜め下に尖らせる。

調息
 最後に、眉間の上の慧眼を調え、鼻孔を調え、耳孔を調える。調えるというのは閉じるのでもない、開くのでもない、微妙な半開き状態のこと。 そうして、鼻から吸って、耳から吐く。そっと吸ってそっと吐く。
 10回ほどくりかえしたら、吸うのは意識せず、ただ耳孔(耳門)に意識を集め、息の通るのを見守る。

まとめ                   
坐禅は、への字口。尻に座布団を敷き、膝頭で体重の幾分かを支え、結跏趺坐で座る。集中のために息を数えてもよい(数息観)。目を開けたまま集中して真剣に考える。最初に1時間なら1時間と決めて、何がなんでも(強い気持ちで)続け、達成感を得て終える。      静坐は、アヒル口。坐忘。心を遊ばせる。気が散って集中できなくなったり、雑念に紛れそうになったらさっさとやめる。初めは5分でよ い。次第に長くしていって15分~20分を標準として日課にするとよい。
全体のコンセプトは、静けさ。気分は愉快。顔の表情を維持すること自体が、気を全身にめぐらせること、気功なのである。
 終わると決めたら、大きく息を吸って目を開け、脚を伸ばし、からだを揺すって、顔をはじ め全身をマッサージする。
 
161100       気功論の課題

中国気功にはそういう課題はありません。何せ、国家のための気功なんですから。さらに言えば、中国共産党のための気功だからです。
気功論というのは、気功とはどういうものかについて、解説紹介するものではありません。今ここにある気功を対象として、理路をもってその本質を説得的に語ることです。今ここにある気功とは、当然我が心身によって練り上げられてきたものですから、気功論はまず最初に自分にとって意味のある投語でなければなりません。
現代(中国)気功は、伝統的な気の心身技法を、近代的思考によって、編集しなおした作品群という性格を持っています。その性格は、実は国家公認の中国気功の編集者たちによって与えられました。その「結晶」が、保健気功でした。もし、その作為がなかったら、中国気功は名前だけで、古いものを古いまま、まるごと飲み込む伝統的な伝承による心身技法であるにすぎなかったのです。
しかし中国人気功家による努力は、たいへん稚拙な科学的装いと伝統的中医学との折衷によるものでした。それ以外の努力は当局によって認められなかったでしょうが、私の見たところ、事実上それ以外の努力はなかったのです。そう、中国人はピンからキリまで気の毒な国民なのです。要するに、中国気功の貧困は共産中国建国以来の自由な思想の貧困のせいなのですから。
けれども、中国気功がなかったら、日本に気功は息づかなかったのです。真摯で人間性にあふれた中国人気功家との信頼と友情のために、日本人気功家は自由な思想による気功論をリリースしなければなりません。そういう問題意識を持たねばなりません。

1980年代、入ってきたばかりの気功を、日本の医師、宗教家、心理学者たちは、その不可思議な技法とそれによってもたらされる生理的・心理的効果について、探求し、解釈を試みました。そして、中国人気功家には なかった多彩な視点と多彩な論点を整理していったのです。
中でも、気功が要求するリラクゼーションが、脳機能の変容をもたらすという視点が画期的でした。中国人気功家が、体認的にそれを知らないはずはありません。しかし、彼らはその事実を言語化し、理論として打ち出す力を持っていませんでした。心理学を脳生理学に隣接する科学として組立てなおす学問的場を持っていなかったからでしょう。
脳が順調に機能している時は、大脳新皮質・大脳旧皮質・脳幹の三者のバランスがよい。それが新皮質偏重に陥るとパフォマンスが落ちる。新皮質に休息を与えなければならない。睡眠によるたんなる休息ではダメで、旧皮質を活性化させる「脳運動」を起動させる必要がある。
こう主張していた池見酉次郎が、気功に飛びつきました。気功はそういう脳運動を演出すると喝破したのでした。この際持ち込まれたのが脳波理論だったのです。すなわち新皮質前頭前野における脳波がα波のとき、旧皮質が活性化するのだ、と。

一方、当時の中国の科学者たちは気功医師が掌から発出する「外気」の正体を科学的に解析することに熱中していました。超音波であるとか遠赤外線であるとか、ある気功医師が発する「外気」は糖尿病患者に効果があり、またある気功医師の「外気」はガンに効く、というような。そうして中国の気功と気功医師の卓越性を世界に向かって誇示したがっていたのです。
また、「外気」とともに気功の「フシギ」を喧伝した「自発動」はおおいに注目されたものの、彼らはその生理現象を科学的に説明することに事実上失敗してしまいました。そして、それゆえに、中国気功は、国家から見放され、凋落していくことになったのでした。

日本の気功が、かろうじてその命脈を保っていられるのは、「外気」も「自発動」も、また気功の理論的基礎としている「経絡」も、脳疲労回復法の仮説も、広義の発生生理学によって、ほぼ統一的に説明可能なところまで、哲学的な歩みを進めてきたからであります(といっても、それをしてきたのは事実上私一人なのだが)。
皮肉なことに日本における気功は、科学的に説明してしまうことによって、受け入れやすくなるわけではないのです。かえって、魅力が減退するようなところがあります。だとしても、日本の気功家は、気功論を充実させる努力を惜しんではなりません。
法輪功といわゆる社会気功・宗教気功を葬り去った中国では、中国気功は今や中国本土から追い出されて、局所的散発的ではありますが世界各地に蔓延しております。しかし、中国気功の「殻」を脱げない彼らには、気功論の欠落という致命傷によっておそらく、世界性を獲得する能力を持ち得ないのですから。
 
     
     
     
     
     
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