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山部嘉彦は気功に出会って以来四半世紀にわたって 会報『ゆーき』をはじめ、さまざまなメディアに 評論や気功的身心論などを発表してきた その一部は著書として公刊されたが、 限られた読者の目にふれただけの論考も少なくない このページには、山部嘉彦自身による自薦の旧作と 最近の気功関連の小品を集めた |
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2013.5.24 | 中国を毛嫌いしちゃいけない。 奥の方で眠っているのは、 近代を呑み込むリゾームだぞ。 山部嘉彦 これから、私が今紡いでいる気功のことを語っていこうと思うのですが、話は中国とアメリカのことから始めたいと思います。 文革が終息してからそれこそ息を吹き返した気功は中国の開国を印象づける輸出商品でもありました。その新しい中国の息吹であった気功を「輸入」した日本という国は、それ以前の2000年以上にわたって中国の恩恵を受けてきた国であります。 私たちが使っている日本語の語彙の70%は中国語と中国語を土台にして作った和製漢語です。中国語と日本語は文法も発音もまったく異なる別系統の言語ですから、人種も別系統だと考えられます。しかし、巨大な自立する文明国家の東方にあって自立するためには中華帝国の「文明の文法」を取り入れて、それを巧みに消化すること、つまり「つかず離れず」が自然で当然のことでした。そうやって自らを育みつつ、倭の五王の時代から江戸時代までやってきたのでした。 江戸時代の後期になって、近代国家の「文明の文法」が押し寄せてきました。 最初の一撃は北方のロシアから打ち込まれ、それから50年後には太平洋のはるか東方のアメリカによって打ち込まれました。この第二弾は強烈で、日本人は外交過程で完全に屈伏させられ、その後まもなく国体まで大転換させられてしました。その象徴が「万国公法」というやつで、薩長藩閥政権は明治改元以降「万国公法」に沿った国づくりに邁進することになります。 ところが、中国は日本とはちょっと違った道を歩みます。中国人は大転換なんかしなかったのです。清国は18世紀後半から英仏をはじめとする列強諸国にこてんぱんにされながらも、1911年の辛亥革命以後も近代化なんか上っ面だけで済まし、懐の奥底に3000年間貯め込んだ自前の「文明の文法」を隠したまま、この100年間じっと耐えてきたのではないかと思います。表面上は近代国家の「文明の文法」を用いていますが、本音は自前の「文明の文法」でやってきました。 中国人にとって、共産主義はその本音を包み隠しておくためには恰好の仕掛けだったと思われます。ここ20年くらいは中国人にとって、共産主義の外套をかなぐり捨てて自前の「文明の文法」に回帰するルネサンス期であったということができるのではないか。私はそう思います。ただ、彼らがそのことを自覚していないだけのこと です。 これは孫引きですが、ヘンリー・ミラーが戦争前の『ハムレット』という著作の中で「中国は人類というキャベツ畑の雑草だ。…雑草は人間の努力の復讐の女神である。…とどのつまりすべてが中国の状態に回帰するのだ。それは歴史家たちが一般に中世の暗黒と呼ぶものである。」と書きました。ミラーはアメリカという「人間の努力」、つまり近代国家の「文明の文法」の中で育ってきて、中華民国のカオスを目にした時、自分たちは結局こいつらに負けるんだ、雑草に負けてしまうんだと、直観したのではないでしょうか。 このフレーズを約50年後に読みなおした思想家ジル・ドゥルーズ(とフェリックス・ガタリ)は、先の引用句の直後に半ばうろたえながら「ミラーが言っているのはどの中国のことだろう、古代のか、現在のか、想像のか、それとも動いてやまぬ地図の一部分をなすような、もう一つの中国か?」(ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』1980)と書いております。樹木たるルイ王朝とリゾームたる毛沢東の大河と形容しつつ、ドゥルーズはつまり(著述していたその時分)現視できる毛沢東の背負っている歴史の中国にヨーロッパでは決して見ることのできなかった思考をかいま見たのでしょう。誤解のないように注釈しておきますが、ドゥルーズは毛沢東の共産主義を肯定していたわけではまったくありません。毛沢東の共産主義は、レーニンやスターリンの共産主義とは違う。その違いは中国の伝統を無意識のうちに踏まえているからじゃないのか。自分の知らない不思議な原理を、毛沢東の仕事から感じるんだ…という程度のことです。 ドゥルーズにはとらえることのできなかった「中国」を、私は気功を介してとらえることができます。ちょっと先走って答えを先に出しておきます、その「中国」はむろん現実の共産党独裁の中国ではありません。それどころか毛沢東を否定して政権を維持してきた共産党が、放任しておけば早晩自分たちを滅ぼすかもしれないと、その芽を摘みに狂乱する《自由な気功》の心棒をなすものです。 …と、私は思っているのですが、当のドゥルーズは、その正体を知ることなく、ただその顛末だけは見えていたのでしょう、近代国家も、その「文明の文法」も資本主義(というより投資主義)も、人類の積み重ねてきた努力なんてものはたちまちチャラになっちゃうんだぞ、リゾーム(この文脈では雑草)という、始めも終わりもない「存在のあいだ」に回帰するんだと、言ったなり、1995年に死んでしまいました。 私が言う〈共産党が自分たちを滅ぼすかもしれないと、その芽を摘みに狂乱する《自由な気功》の心棒をなすもの〉は、いわば毛沢東の衣服に染みこんでいた前時代の油分で、いつ発火するか分からない不穏な成分です。だから、毛沢東の狂信的な走狗であった紅衛兵はそれを打ち壊そうとして狂乱したのでした。もっとも稚拙な紅衛兵は、ほんとうは何をぶっ壊せばいいのか解ってはいませんでした。しかし、振り上げた棍棒のいくつかは、確かにその前時代の油分を叩きました。 さてここから先は、気功は果たしてヘンリー・ミラーの雑草であり、ジル・ドゥルーズのリゾームでありうるのかという話であります。 せっかく長い間気功をやってきたのですから、気功の価値を、このあたりまで引き上げておきたい。主観的にはね。できれば千のプラトー(高原)の一つまで。と、まあ勇ましいのは結構ですが、突撃する前に少し気功の周辺事情をおさらいしておきましょう。 ご承知のように、気功は文革後の1980年ごろから急激に流行りはじめました。 それが21世紀を目前にして弾圧を食らい、一気に血の気を失ってしまいました。まるでミラーが予言したような雑草がキャベツを覆い尽くそうとする勢いを、根こそぎ共産党という樹木に持っていかれました。 共産党主義者たちは法輪功をはじめとする社会気功と呼ばれた猥雑な雑草の何を恐れたのでしょうか。あんな程度の知性が、強大な共産中華帝国にとって代わることができるわけないじゃありませんか。それに、党と軍によって呵責なき弾圧を食らっていたにもかかわらず、社会気功の担い手たちには世界中どこを探しても味方してくれる人も思想もまったくなかったではありませんか。 答えははっきりしています。共産党主義者が恐れたのは社会気功の蔓延ではありません。彼らは、本能的に自由な気功の心棒、言い換えると気功の神髄が庶民を潤すのを恐れたのです。社会気功に気功の神髄が感染するのを恐れたのではないかと思うのです。 気功の神髄は、古典文献の中の隙間に眠っています。また以心伝心の伝承術の極意の中に眠っています。 日本の気功家の中でも、中国の古典を漢文のままジカに読んだ経験がある人は少ないと思います。読んでみると、非常に難解な印象を受けます。しかし、アタマを切り換えて何度か読んでみると、なるほどと納得できる。古典文献は、後人を納得させるために書かれたのであって、同時代人を理解させるために書かれたのではないからなのです。ですからその記述はまったく説得的ではありません。まず丸飲みさせるのに適した書き方になっています。人を酔わせるようなリズムと韻がある。 丸飲みした記述が胃の中で修飾文に相当するものが次第に融けて流出してしまい、いつしか読み手にとって必要なものだけが残される。それを繋げて後人は理解するわけです。繋げるのは後人の才覚に任されていますから、時としてさまざまな説が現われる。しかし、それは仕方がないのだと、古典の作者は思っていたはずです。 たとえば、私が今熱中している『六字訣』の復元のことに則していえば、この気功のベースになっているのは経絡思想、陰陽五行説です。それが記載されているのは『黄帝内経』です。そこに、経絡の流注・五臓六腑・顔面の陽経の起止点・五行の色体・五竅…などの情報が、互いに何の脈絡もない状態で分散配置されております。 それらをつなぎ合わせると六字訣の設計図になるのですが、最初にこの気功を書いた陶弘景は、そのことを一言も書いておりません。まことに不親切、なように思えます、現代の私たちには。 私たちのアタマは、近代教育のせいで、ものごとを理解するようになっています。ですから記述は論理的で説得的なのです。 しかし、ドゥルーズとガタリが書いた分厚い本は違っています。非常にとっつきにくい書き方になっているのです。つまり彼らの記述は連鎖的、分散的、象徴的、反芻的なのです。まるで支離滅裂な歌のようです。そう、彼らの著作自体がリゾームなのです。 一つのテーマを二人で書くとマルクス・エンゲルスのように厳密論理的になるか、ドゥルーズ・ガタリのように象徴連鎖的になるしかないのでしょう。 ドゥルーズは「中国」に、何か自分たちの論法と同じ臭いを嗅ぎ取ったのでしょう。毛沢東の演説とか論文の中に、ある種奇妙な、中国人にはすんなり理解されているにちがいないものが、自分たち(の文化の中に浸かっている連中)には伝わらないことを察知したのだと思われます。ドゥルーズは、毛沢東が反右派闘争で、大躍進で、文革で、実際に何をしでかしたか何も知らずに死んでしまいました。知ったら、あんな「好意的な」書き方をしなかったのではないでしょうか。 私は、気功の新三要素を《リラックス・気の身体・遊心》と標榜していますが、この中の「気の身体」を論理的に、説得的に説明するのがたいへん難しい。どうしてもある局面で超越的になってしまうのです。これは、近代教育の視座、あるいは科学の態度からの逸脱です。 どんなにスマートで効果的な気功でも怪しいと思われるのは、このせいではあるまいかと、最近つくづく思うのですが、どうでしょう。 でももし、気の身体、つまり経絡・ツボ・丹田とこれらを流通する気というものを除外したら、それはもう、気功とは言えないのじゃないか。少なくとも、中国伝統気功の遺産を継承することはできまいと思います。それだけではない、中国伝統気功の中に眠っている《隙間》を、手に入れることをあらかじめ放棄することになる。この文脈で言えば、可能性としてのリゾームを放棄することになるのです。 実は、いくつかの動機によって、これはいけると踏んだ「診断筋マッサージ」「静坐(亀息/微笑息)」「六字訣」を出版してもらおうという気になって、いくつかの知り合いの出版社に企画書を提出したのですが、返事が届かない。で、ものは試しと、周りの気のおけない気功家たちに読んでもらったら、やっぱり唸るのです。うー…ん、これは…と。 その反応を見て、私はハッとした。オレは、いつのまにか《隙間》の色に染まっちゃったのかもしれないぞ。けっして怪しいわけではないけれど、自分の文体は訳の分からない言語になっているのかもしれないぞと。 ヘンリー・ミラーが、中国の得体の知れないエネルギーを前にして、これは「中世の暗黒」と呼ぶものだ!と怯えた、ドゥルーズの言うリゾーム。それは、見えないけれど感じられる存在様式を持っています。象徴的に言えばバクテリア的なもの、もっと言えば「音」的なものです。それは共鳴し、感応し、いつのまにか、あたり一帯をその「和音」で染め上げてしまいます。 |
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2013.4.13 | 微笑息 3月発行の『身体知』を編集していて、2~3ページほど余白ができそうでしたので、調息のことを考えているところだったこともあり、微笑息のことでも書いてみようと気軽に書き始めたのでしたが、この「研究」対象は、奥が深かった。それというのも、木喰上人の人徳に触れたせいでした。 笑いが健康によいということは、よく知られております。よい理由はそのへんの生理学者が脳内生化学物質が○○神経を刺激して…などと、うだうだ言っておりますが、本質的なことではありません。 本質的なことは笑うという生理現象が呼気を長くして胸郭を引き締め、その直後の吸気を一気に拡大して胸郭を広げる作用を持つため、一義的に肺が酸素を多く心臓に送り出すということでしょう。 一方、心経の陰気が口腔側面から噴き出して小腸経の陽気に転じる際に、笑うことによって引き起こされる笑筋の収縮作用によって上顎骨下辺に形成される小腸経のルートが大きく開かれ、小腸経が一気に活性化します。すなわち心拍を強く速くさせるのですが、この肺と心拍の相互作用こそが、身体全域手足の末端まで新しい血を送り込んで体温を上げ、ミトコンドリアの活性化を促して代謝を早め、静脈血の免疫力を高めるために、健康によい、元気になるというわけなのです。 笑うと健康でいられる…ということは分かっていても、笑う材料に乏しい生活を強いられている現代日本人は、なかなか心の底から笑うということができません。どうですか。あなたは、今日、お腹の皮がよじれるほど笑いましたか。昨日は? 先週は? 今月に入ってからは? いえ、今年に入ってからだって、苦しくなるほどの大笑いを笑ってはいないのではありませんか。 日本人には、アメノウヅメの昔から結構笑ってきた歴史があり、狂言や落語など庶民の笑いの文化を育んではきたのですが、その反面、厳しい現実を生きなければなりませんでした。いつもいつも朗らかな国民ではなかったのです。今もそうであるように。 木喰上人が生きたのは1718年から1810年までということになっておりますが、木食戒を授かったのが45歳、仏像を彫りはじめたのが61歳ということになっております。 その年は天明の大飢饉のさなかで1783年から5年連続の飢饉でした。東北を中心に10万人が飢えて死んだということです。木喰さんは当時の地の果て蝦夷地の太田権現で約70年前にここに来て彫った円空の微笑仏を見て、ああオレでも彫れる、彫らなあかんと一念発起するんですね。 それから木喰さんの遊行が始まる。飢饉で疲弊した村を歩くんです。 木喰さんはぼろをまとった六尺の坊主で、五穀を断ってソバガキみたいなものと木の実しか食べずに、頼まれては彫って彫って彫りまくる。 彫りはじめてから客死するまでの30年間に約千体も彫る。単純計算で十日で一体の割です。はじめのころの作品は渋いお顔の仏像ですが、だんだん例の丸くまんまるのにこにこ顔になってきます。 どうしてだと思いますか。 木喰さんが訪ね歩いた村々の農民たちは疲弊していて笑顔を忘れていたにちがいないのです。貧しくて、幼子を亡くしたり、病魔に冒されている肉親を抱えていたりしてね。木喰さんの修行はそういう貧民に顔施で報いるということだったんでしょう。〈この仏さんのごと笑ってみなさい。な、笑い飛ばせば何とかなるんじゃ〉とか言って手渡したのですね。小さな仏像を。 立派なお寺の国宝級の仏師が彫った仏像とは、違うんです。 木喰さんは笑いの見本を仏像に託して、日本国中を励まし歩いたということじゃないでしょうか。 さて、木喰さんの彫った仏像は微笑仏(みしょうぶつ)と呼ばれております。 微笑は、英語ではsmileといいますが、欧米人のスマイルでは歯を見せて笑っております。日本人の微笑では歯を見せません。木喰仏の中には歯を剥き出しにして笑っているものもありますが、多くはにこにこ顔ですが歯を見せておりません。世界三大微笑の一つ「モナリザ」(ジョコンダ)も歯を見せておりません。今日の欧米人が歯を見せるスマイルは、外面、外見の美を意識し、させる近代の意識の反映で、それ以前の微笑は洋の東西を問わず内面からの表出としての生理現象そのものであったと言えるでしょう。 木喰仏の微笑について『身体知』に書いた時には気付かなかったことがあります。 それは上唇の上の人中(鼻の下)に「溜め」があるということです。 この人中の下は切歯骨です。人間では左右の上顎骨と癒合して一体になっていますが、他の哺乳類では別々の骨です。要するに切歯骨が下顎骨とワンセットになっております。内胚葉系のホネなんです。さらに言えば、肺-大腸経の所属です。そういう骨の表層の上唇~人中を薄くして両端を絞った表情。これはいわゆるアヒルぐちという、少女のおどけ仕種における口元ですが、こういう表情をすることで切歯骨の両端に響く。そこで、つまり迎香という小鼻の脇のツボが刺激されて呼吸器が活性化する。酸素が寄り多く肺に供給される、そう私は思います。酸素がたくさん入ってきて心拍が増え血流がよくなる、そういう表情を、木喰さんは「こんなふうに笑ってごらんな。生きていかなならんのじゃけ」と、まあ、おっしゃったにちがいないのです。 ゲラゲラと笑うと、それは発散です。排泄なんです。微笑だと、補充です。アヒルぐちだとそれが強まる。木喰さんの長い経験が、あの笑顔を人を励ます最高形態であるとの確信にまで高めたのだと私は信じて疑いません。 毎朝、鏡の前で、このおどけた笑い顔をしてみる。 ちょっと大袈裟に、眉尻を引き上げて、アヒルぐちで、ほっぺたに鶉の卵を含ませて、口角を引き上げて、「いーうーいーうー…」と口ずさむ。それから小さくかすかに口元から「ふふふふふふ」と漏らすように吐きながら穏やかに表情筋を弛めていきますと、なかなかいい顔になります。心も軽くなります。 そういうことを、木喰さんから教わりました。 |
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2013.3.14 | 行気はどう読む? 『身体知』では「行気・聴勁・愉気」を連載中です。ここでは「ぎょうき」と読んでいますが、ホントにそれでいいのか。 というのは、気功のテキストで、その歴史を素描する時、必ずといっていいほど取り上げられるのが「行気玉佩銘」ですが、これは「こうきぎょくはいめい」と読むことになっています。戦国時代初期の紀元前4世紀ころの、小さな十二角柱の玉に刻まれた文には 「行気。深即蓄。蓄即伸。伸即下。下即定。定即固。固即萌。萌即長。長即退。退即天。天幾舂在上。地幾舂在下。順即生。逆即死」 とあります。気息の歌ですね。この冒頭の行気をコウキとして、合掌行気はガッショウギョウキと読む。さてギョウキとコウキでは意味が違うのか。どう違うのか、なぜ違うのか、いつから違うのか??? たぶん、これまで誰も問題にして来なかったのではないかと思います。以下、私がはっきり答えようと思いますが、現代日本人の知行分離体質とでもいうのか、ほんとうにダメなところです。 日本にもそれなりに気功や修行を学問的に研究している人はそこそこいるんですよ。でも実際に練功をしっかりやっていて気功を学生にきちんと手ほどきできる人はいません。学問研究だけです。逆に、長い間練功してきている人は少なくありませんが、気功研究もしている人は少ない。ボンクラ大学の先生にさえなった人がいないのです。中国の気功の先生で、大学の先生もやっている人はかなりいます。大都市の大学にならどこでもいる。やはり、層が厚いですね。 それはさておき、行気。 どう読むかという問題は、さしあたって日本人の問題です。中国人にとっては問題になりません。現代中国語では一つの熟語が複数の読み方と異なった意味を持っていることは、原則ないのです。一義一語だからです(正確に言えば一義一音声)。 日本人は、2000年以上前から、中国と往来してきました。中国は国力も文化も産業も圧倒的に優位でしたから、すべての面で日本は受容する側でした。第一今こうして書いているこの漢字が中国語の文字ですからね。 ヒミコの時代から、倭の五王の時代をへて、古事記、日本書紀の時代、遣隋使・遣唐使の時代までほぼ千年間、日本は完璧な中国従属国家でした。中国に行ったら、学んで帰ってくるだけでなく、大量の文物を仕入れてきてそれにかぶれることが支配階級の務めだったんですからね。天皇をはじめ、貴族階級はそれをむさぼり読んでいました。 竹中平蔵みたいに今はかつての敵国アメリカにかぶれることが時代の先端指標になっていますが、昔は中国文化の新しい流行を早く身につけることが自慢でした。紫式部が親父が仕入れてきた最新情報をひけらかして清少納言を遅れてる、ださいヤツと小馬鹿にしてたり。昨今の自民党のブレーン連中と、同じ遺伝子ですね。 では、中国からの外来文書を実際にどう読んでいたかといいますと、平安時代まではほとんど全部呉音で読んでいました。遣唐使以降入ってきた新語だけは漢音(唐の長安の発音)で読んでいましたが、宗教哲学用語、日常文化語はみな呉音です。 かんじざいぼさつぎょうしんはんにゃはらみたじごうんかいくうどいっさいくやく… というように。 遣唐使が中止され、その後平安時代末になって平氏は日宋貿易に乗り出し、鎌倉時代にかけてインテリも貿易商も渡海するようになりますが、行き先は寧波です。ネイハじゃないですよ、ニンボーです。長江河口の南の杭州の南の港市です。留学僧は、ここから仏教の聖地五台山に入ったのでした。禅宗の用語は読み方が珍奇ですが、それは鎌倉時代以降の唐音(風鈴、蒲団、暖簾、提灯、椅子、行脚など)に従っているからです。 観気旅行で普陀山に行った時、この町に寄りました。この町には日本領事館があったのです。かつての図書館にはこの地で亡くなった日本人留学僧の墓もありました。その昔ここらは呉の国でした。文物はここから積み出されました。今でも和服のことを呉服というのは、こういう文化のルートの賜物といっていいと思います。 さて、行の字ですが、これは「いく」と読むのは後年のことで、昔は「いく」には「往く」を当てていました。行はもっぱら「ぎょう」で、訓読みは「おこなふ」です。また、「いく」も、当初その意味は「うまくはかどる/よい/納得できる」であって、今日の「どこかに向かって進む」という意味はなかったのです。ちなみに「行なう」は「型や習慣に従って同じ調子、同じ形式で続行したり、施行・実施したり、処理したりする場合にふつう用いられる」ので、まさに「ぎょう」であって、それは古語辞典を繰ってみれば一目瞭然です。 行幸、行学、行儀、行啓、行者、行水、行体、行道、行功、行業、行作、行事、行徳、行人、行歩、行法、行力。経行、悪行、遊行、修行、勤行。 そういう次第で、行がギャウであり、オコナフであった時代(つまり明治以前)は、行気は「ぎょうき」としか読みようがありませんでした。 それがどうして「こうきぎょくはいめい」になってしまったのか。 それは、明治国家権力が、儒教思想で社会統制、漢音による学問・行政用語統制を敢行したからです。 明治国家の思想的原基は江戸時代の国学に求められますが、その倫理的基礎は儒教の中のどちらかといえば亜流の陽明学です。そのため、徳川幕府の政治伝統を継承したくない薩長藩閥政権は全土一元支配のための中核思想としてこれに依存することにしました。そして明治政府の周辺にあった漢学者が西洋文明の文物概念を翻訳する時に作った新作用語も江戸時代の漢籍(儒学文書)の読み方、つまり漢音で読んで普及させました。したがって明治以降流入した中国語も、それほど多くはありませんが、人名地名を含めことごとく漢音で読みかえる習いとなりました。 それが、戦前のみならず、戦後の日中文化交流においても踏襲され、古代中国思想哲学などの学術分野においても何の疑問もさしはさむことなく、行気を「こうき」と読んでしまうハメになってしまったのです。 一方、「ぎょうき」と読む伝統は、今日に至るまでどうつながってきたのでしょうか。 江戸時代から明治時代になっても、仏教を中心に修行する人たちの伝統は途絶えることなく居残りました。彼らは遊行遍歴し、西日本では修験道が根づいておりましたから、各地で交錯し、それが庶民に支持されておりました。江戸時代末期に相継いで登場した新興宗教(黒住教、天理教、金光教)を下支えしたのも、そうした伝統あってのことでした。彼らは本質的に行者集団で、すっかり日本化してしまった古来の道教の血を引き、例外なく行気(内気・外気の修行)を行ない加持祈祷を修めていたのです。 その中から都会定住者となる者が現われ、霊術家、療術家として名をあげたりしたわけです。東京の松本道別(少年時代の野口晴哉を指導した道士。霊学道場主)もその一人です。彼らにとって行気は当然「ぎょうき」です。その内容から言っても、行気玉佩銘を「こうき…」と読むなんて、ありえないのです。 実は、中身がないのは、東京帝国大学の儒教信奉者が占有していた戦前戦後の中国哲学科の教授連中だけではないのです。1980年代に中国気功を初めて受け入れた若き日の私たちも、気功の用語を何の根拠もなく当然のように漢音で呼び習わしてきたのでした。 たとえば鬆静自然(ショウセイシゼン)性命双修(セイメイソウシュウ)三体式(サンタイシキ)などと。今思えば、(ソウショウジネン)(ショウミョウソウシュウ)(サンテイシキ)以外ありえないのですが。そうした軽率な挙動を戒めるように確信をもって気功用語を敢然と呉音で紹介したのは池上正治氏だけだったと思います。 日本には「気功学会」がないので、用語の読み方を統一しましょうと今さら提案することもできません。「こうき」と読んだり「ぎょうき」と読んだり、言いなりです。初心者にそれとこれは意味が違うんですかと問われて答えに窮する気功指導者って、どれだけの器なんでしょうね。 とにかく、ものごとをせめて五百年千年の長いスパンでとらえることができないと、必ず道を誤り、誤っても反省すらできないのではないでしょうか。行気をどう読むかなんて、小さなことのようですが、日本の気功の底の浅さを象徴するような、恥ずかしい話であります。 結論。行気は「ぎょうき」と読む。気功用語をどう読むべきかは、再考すべきだ。お粗末。 |
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常息と瞑想 呼吸と呼吸法の区別をつけることは大切である。 自然呼吸のことを常息という。 常息の特徴は二つ。鼻呼吸と連綿息である。 常息には、三つの種類がある。 ⑴平息。この粋が寝息。 ⑵随息。いわゆる順式腹式呼吸。 ⑶微笑息。 常息こそが瞑想に相応しい呼吸である。 瞑想を極めるには、常息を鍛える。あたりまえの、生得的なこの自分の常息をきちんと建て直すことから始めなければなるまい。 ⑶の微笑息というのは、ほほえんでいる時の息遣い。自ずと呼気が長く、微妙な断続息(かすかな区切り揺らぎのある息)である。嘻字気訣の口呼気を解き、鼻呼気に転じ、表情筋作法を維持した息。 |
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2013.3.3 | 中国気功の市場主義 ジャック・アタリ(現代フランスの経済学者)が、毎日新聞2013.3.3朝刊の『時代の風』というコラム…というより、これはメドレーリレー風の囲み記事というべきか…で、「宗教と民主主義」について、なかなか興味深いことを書いている。 アフリカのマリの、イスラム過激派がテロを敢行したが、アルジェリア軍に撃退された。過激派には国際協調で戦争して勝つしかない、というイントロで、穏健なイスラム教と民主主義は共存できるが、イスラム過激主義とは共存できない。国際連携で、撲滅するしかない…という趣旨である。よく読むと、そう主張している。 キリスト教にも、ユダヤ教にも、ヒンドゥー教にも過激主義はあるし、共産主義はそもそも過激主義である。そういう過激主義と民主主義は共存するのかな。アタリは、「どのような宗教でもイデオロギーを強制する意思はすべて民主主義に反する」とこの記事の中で主張している。何をマヌケなこと言ってやがる。 せっかくだから、こいつを先にやっつけてしまおう。 アタリは、まあ、態のい民主主義者である。たとえば情報統制のない民主主義国でなら、原発はありだよと。原発は、民主社会では管理できるものなんだ。統制だらけの中国や北朝鮮やイランやパキスタン…では危ないけど、フランスでならいいし、アメリカでもいいし、でも日本はあの報道管制だからなあ、とのたまう民主主義者である。ロシアは?イスラエルは? まあ、この程度のヤツだから、矛先はムスリムには向かうが、キリスト教原理主義にも、ユダヤ教原理主義にも向けられない。 原理主義は、宗教だけにあるのではない。市場主義にだって、民主主義にだってある。市場主義というのはそもそも資本主義の原理主義だ。 さて記事中のアタリの所説に沿って、これらの原理主義の価値意識のシェーマをまとめてみよう。アタリは市場主義の特徴をこうまとめる。 物質的>精神的 個人>集団 短期的>長期的 じゃ、宗教はどうか。以下は私のまとめ。 精神的>物質的 集団>個人 死後>現世 民主主義はどうか。 自由>統制 個人>集団 新興>伝統 …となるだろう。 すると、これらの三つのジャンルをクロスオーバーする「中国気功」はどういう価値意識に彩られているか。 市場主義における物質的(健身)>精神的 宗教における集団(型指導)>個人 民主主義における統制(国家管理)>自由 と、まとめることができる。 民主主義については、眉にツバをつけてチェックするクセをつけてあたるべきだと、私は思っている。なぜなら、私たちの知っている民主主義というのは、近代主義と資本主義を土台として成立している、特殊な民主主義にすぎないからである。ちなみに近代主義の原理主義が共産主義である。 今、私たちは中国気功(健身気功)を反面教師として(正面教師にしてしまっている日本人もいる!)日本の気功~グローバルスタンダードの気功(のありかた)を考えてみたいと思う。 |
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------------------ | 気功の深淵 気功にはさまざまな顔があり、人は気功のある顔を見て、これが気功か…と思い定める。気功の道に分け入った人は、はじめ、教えてくれた師の顔を気功の顔とダブらせるものだ。しかし、気功をしてきて一人の師しか知らないという人はあまりいない。たいていの人は何人かの先生から趣の異なった気功を教わる。そのことで、人は自分の気功の顔を持つきっかけを得るのだ。 私は気功を知ってまだ間もないころに、否応なく「教える」立場になった。 そのことで、私はいくつかの気功の顔を持ち、それは次第に自分の気功の顔を形成していくことになったのだと思う。もっとも一つの頑固な顔に凝固してしまったのではなく、時と場合によっていくつかの顔のどれかに変貌するのだが。 とはいえ、気功を学び始めてまもなく30年。30年もやってきて、自分の気功を持てないのなら、責任のある指導もできないのではないか。私がまだ40代の壮年なら、先生に聞いてきます…という逃げ口上も許せるだろう。が、今や私も還暦過ぎである。先生に聞いて正しい答えをお伝えしますと答えるのは恥ずかしい。逆に言えば、師たる者は、弟子の歳が60になる前に、その弟子に教えられるものは皆教えて、後は自分で道を開いて行きなさいと言わなければならない。 「これからはお前は弟子ではなく、同じ道を歩む友人だ。知ったことを互いに教え合おう。」と言わなければならない。 もっとも、そんな弟子を持てるかどうかが問題なのだが。 私の場合は、私が慈愛をもって突き放す前に、さっさと尻をまくって去って行った人ばかりで、思うに任せない。不徳のいたすところである。 以下の拙文は、気功の入り口では見えなかったその姿を、伝えるのにふさわしいと思って選んだ掘り出し物である。深淵はもう少し深いが、その深みの色合いが感じられれば、この目的は半ば達せられたというべきであろう。 |
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気功の本態 …教室では練功という気功の実践に「型」稽古のような方法を採用していますね。 □はい、ふつうそれを「套路功法」と呼んでいます。いうなれば技の型の接ぎ合わせたパッケージですね。 …その套路功法に習熟することが気功という「内気の鍛練」になるのはどういう理由ですか。 □それは「型」が内気を潤滑させたり増強する仕掛けになっているからです。 …でも、天を表現したり、大地を表現したりする、ある種の象徴動作や姿勢は、必ずしも気の通りをよくするものとは限らないのではありませんか? □そのとおりです。そういう気功はシンボル気功とかイメージ気功と呼ぶと理解しやすいと思いますが、型が直接内気を刺激するのではなくて、脳を刺激するんだと思います。脳は「意味」に反応する大脳新皮質と「印象」に反応する大脳辺縁系があります。普通はこの両方が反応しますが、気功をしている最中は「印象」に強く反応します。いわば、象徴の連鎖が起きる。その結果、脳内の辺縁系の自発動が起きる。 …自発動とは何ですか? □はい、これこそ気功の本態なんですが、自然のリセット運動です。地殻における地震と同質のものです。日常の生活の積み重ねの中で起きてしまうひずみ、歪みがあるレベルに達すると、もとに戻ろうとする内在力が働いて、揺さぶりが起きます。それは毎日起きています。睡眠時の寝返りと夢です。この二つは同じ「自然のリセット運動」の身体表現と精神表現です。睡眠時の脳は休息状態ですから脳波でいうとδ波で安定しております。睡眠は短期的なひずみの修正には適していますが、体質的なひずみや不眠状態が続いて疲労が蓄積すると対応しきれずに、病気になります。病気も自発動の一種です。しかし、病気になると身心は病気に専念しますから、日常生活は棚上げしなければならない。ですから、病気の代わりに、病気よりも自己制御可能な状態に誘導しようというのが、気功の自発動なんです。 …自己制御可能な状態というのは、覚醒状態でということですか? □はい。正確にいえば、前頭前野の脳波がα波で安定している身心状態です。この時、不随意神経優位、錐体外路系運動神経優位になっており、平滑筋運動優位、随意筋内の不随意繊維運動優位になっています。こうした条件下では動いても筋肉は疲れない。夜中に激しく寝返りを繰り返しても、疲れないでしょう。それどころか、疲れが取れるんです。それと同じように、激しい自発動が起きても、疲れない。終わったあとはさっぱり、すっきりです。 …その自発動と、「型」はどう関係があるのでしょう。 □これは身体の「型」ですが、自発動には骨格を修正するような運動もあれば、内臓の働きを回復させるような運動もあります。ていねいに自発動を観察すれば、ある動きのパターンが病気を克服し、健康を高めるものであることが解ってきます。古くから伝わっている導引の「型」には、そのパターンを基に設計されたものであろうと思われるものがたくさんあるのです。 …つまり、頭で考えた体操の型と、気功の身体自身が表現した病気治し・クセ直しから紡ぎだした型とは本質的に違うわけですね。なるほどでした。では今日はここまでにしたいと思います。 |
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意と気について 気功を、字義どおりに説明すると、気の鍛練という意味になる。 気の鍛練というなら、気とは何かを説明しなければなるまい。 気は、形以前の形のもと、力以前の力のもと、熱以前の熱のもと、感情以前の感情のもと、考え以前の考えのもと…である。 では、意と気は同じものか、違うのなら、どう違い、どんな関係性があるか。 気は生命体が生きているためのもとだから、誕生とともにそこにあるが、死んだら消滅する。しかし、意は生命体に宿り、気で育まれる。そしてある条件を満たせば死んでも残る。そのような、条件をクリアしたものを志と呼んでいる。死んでからの志を魂というが、しばしば混同されて、生きているうちから胸の中に居すわっているかのように思われている。いわゆる霊性のことだが、霊性という表現には格はあるが方向性がない。魂には上昇性がある。志は地上で実現すべき行動の方向性がある。いずれも、他者に訴える動力を内在させている。だから、気は霊性に連なり、意は志・魂に連なる。 まとめると、意は気の帥である。細胞になぞらえて言えば、意は核に相当する。その細胞が何者であるかを決定する因子である。意は細胞膜の外側では自己実現できない。それで、宿るものなのだ。 そういうわけで、気の鍛練のためには意を調えることが非常に重要なのである。 意が働かないことには気の質は向上しない。ただ強くなれるだけだ。意がよく働くためには、気を集める必要がある。気を集めて注ぐのが鍛練になる。掛け合うともっとよい鍛練になる。これを気合という。 いずれにしても、自分のためだけに使っていては煮詰まるだけで、用をなさない。人間関係の中で使わなければならない。これを、気をつかう、気にかける、気にする、意を用いる、意を尽くす、意を注ぐ、意を留めるなどという。適宜用いるには、その基礎鍛練をするのがよい。それを、気功と呼んでいるものだ。その位置づけを忘れているものは、気功とは言えない。 |
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