筋診断の過去・・現在・未来  


1.筋診断の前史

 筋診断は島根県浜田市の鍼灸師・河野忠男先生(1921〜2008)が創始した経絡治療法の名前。
1948年鍼灸師となり、郷里の島根県弥栄村で開業した先生はその後研鑽を積んで74年島根県鍼灸師会を作り、76年に学会で「筋診断」を発表。
発表当時の筋診断は施術に鍼を用い、両側の全経絡を同時に取穴治療していました。しかし、経絡を診断するのに従来の脈診に換えて筋肉の触診を用いたのでした。
そこで、この新法を「筋診断」と名付けたのです。
当初はこれを島根鍼灸師会の「看板治療法にしよう」と頑張りましたが受け入れられず、会長職を辞して野に下りました。
その後小田原の間中喜雄博士が主催する「鍼灸トポロジー学武会」に招かれ、講師として筋診断研究を発表し続ける中、医師や気功愛好家たちの支持を受け、1988年に日本筋診断協会を設立して、普及活動に乗り出しました。
 浜田でひとり住まいのころの河野先生 

2.設立当初の日本筋診断協会

 1984年夏に京都の大覚寺で開かれた気功合宿にゲストとして招かれた河野先生が披露した筋診断に参加者が感嘆。
これを世に広めよう、本を出そうということになり、86年に『筋診断法』が出版されました。
この本のゴーストライターが、現筋診断研究会会長の山部嘉彦。
そしてこの記念碑的作品は医道の日本社主催の第2回間中賞を受賞しました。
1988年、日本筋診断協会を設立。
会長・河野忠男、副会長・河野哲士、事務局長・山部嘉彦、顧問・間中喜雄。間中先生は翌年亡くなり、協会の永久顧問となりました。
当時の気功界のリーダー、津村喬、星野稔、西村敏らが強力に後援して普及活動が始まったのです。
 

3.協会の活動と解体

協会は、東京・東海・関西・中国・九州に活動拠点をもって活動が続きましたが、技能指導については河野会長に全面的に依存しておりました。
そのため、夫人が亡くなってからの先生には負担と過労が重なり、いくたびか病魔に冒され、普及活動を担う人材が必ずしも思うように育ちませんでした。
何度目かの脳梗塞のあと、浜田での自活困難となり、東京在住の哲士副会長宅に移った会長先生には組織を牽引する余力はなくなっていきました。
そして2002年春には協会は全国統一組織としての活動を解消し、東京・関西・中国・九州がそれぞれ独自に活動することになりました。
その後、しばらく各地の活動は続きましたが、今日では東京と九州だけが実質的な活動を続けています。
2008年、河野忠男先生が亡くなり、筋診断も、新たな時代に向かうことになりました。
この間、九州を中心に活動してきた筋診断研究会の発行した会報記事に対して東京筋診断協会から、筋診断からの逸脱であるから絶縁するとの宣告があり、以来、残念なことに両者間には交流がなくなってしまいました。 
 

4.筋診断研究会の志向

筋診断研究会の指導者は、医業資格を持たない気功家。一方の東京の筋診断協会の指導者は鍼灸院を開業する治療家。
研究会には健康志向の気功愛好家が多く集まり、一方の協会には鍼灸師や鍼灸師を目指す学生らが集まって治療家として患者相手にやっていける専門的技術として学ぼうという向きが強い。
研究会は河野忠男先生が「一家に一人(家庭療法家としての)筋診断を」と言われていた一般社会への普及の志向を継承しています。そのため多様なカリキュラムがあり、会費も安く、資格も取りやすく、認証料も一切取りません。でも、理論も心身調律技能水準もどこにも引けをとりません。会では一般の方も鍼灸師、柔整師、教師の方も一緒に学んでいます。
研究会も発足して15年。小さいながらも、福岡本部のほか九州各地に分会教室を持ち、札幌、東京にも支部を置く全国組織となりました。
 


5.筋診断の将来

筋診断は河野忠男先生の指導の下、鍼灸医の新技術としてスタートし、まもなく鍼を捨て、磁気で診断・治療する技法へ発展させました。さらに、経絡リングを発見して徒手で診断・治療する技法を備えました。日本筋診断協会を発足させて間もない時期には、色体を用いて診断・治療する技法へと進化させました。
その色体も、治療色体として円から六茫星、さらに正三角形へと進化しました。
筋診断研究会では、この十余年の間に、診断色体として紐から紐環へ、さらに正四面体へと発展させました。また虚実の診断には従来の磁気診断器に換えて電池診断器を採用しました。
河野先生は、生前、筋診断は筋肉も使わなくなるだろうね…とおっしゃった。経絡の秘密が解けたら、筋肉の緊張弛緩反応よりも優れたものが手に入るにちがいないと思われたのでしょうね。
筋診断研究会の経絡研究は、「胚葉筋マッサージ」を開発するなど前人未到の野を開拓しつつあります。